デヴィッド・バーン(David Byrne) は、インターネット上で最も検索された自分自身に関する質問に答えています。米WIRED誌のオートコンプリート・インタビュー企画。デヴィッド・バーンが
トーキング・ヘッズ(Talking Heads) を始めたのか? 演技を始めた理由は? なぜトーキング・ヘッズを再結成させないのか? 最初のヒット曲は? 大きなスーツはどこにある? 影響を与えている人は? 誰に似ている? どのようにして曲を作っている? 何曲持っている?など。
Q:デヴィッド・バーンがトーキング・ヘッズを始めたのですか?
「それを全面的に僕の手柄にできるかどうか分からない。ドラマーのクリス・フランツが、“君には曲があるんだから、練習して覚えようぜ”と言ったのかもしれない」
[インタビュアー] 名前の由来を覚えていますか? 他の名前も候補に挙がっていましたか?
「ええ、他の名前もたくさんあったよ。友達がうちのロフトに泊まりに来ていて、バンド名のリストを持っていたんだ。それで、彼が候補を追加してくれたんだ。たぶん、深夜にテレビでやっていたB級映画から来ているんじゃないかな」
Q:デヴィッド・バーンは、デヴィッド・ボウイと一緒に音楽を作ったのですか?
「僕の知る限りではない」
Q:デヴィッド・バーンは(ポール・サイモンの)「You Can Call Me Al」 を歌っていましたか?
「レコーディングではないけど、パフォーマンスをしたよ。ポール・サイモンは、僕が歌うのを後ろから見ていた。少し難しかったね。ポール、どうしてる?」
Q:デヴィッド・バーンは自転車ラックをデザインしましたか?
「はい、しました。さまざまな種類のものを作ったよ。ニューヨークの特定の地域のためのものや、ブルックリン・アート・ディストリクトと呼ばれる地区のためのものとかね」
Q:デヴィッド・バーンが演技を始めた理由は?
「俳優になりたいという野望はなかった。正直なところ、自分にはそれほど向いていないと思っている。本当に上手な人もいるからね。時折、映画監督の友人やそういう人が、“デヴィッド、君はやるべきだよ、すごく簡単だよ”とか、“君にこの映画に出てほしいんだけど、自分自身を演じればいいんだよ”と言ってくれることがある。そこで僕は“よし、やってみよう”と思ったんだけど、僕は何の野望も持っていない。もしうまくいかなかったら、僕をクビにしてほしい」
Q:なぜデヴィッド・バーンはチュチュを着ているのか?
「何年か前にラジオシティでショーをやったとき、(ダンスカンパニーの)ロケッツを呼べなかったんだ。信じられないくらい高額だったんだよ。そこで、みんなで決めたんだ。ラストナンバーで全員がチュチュを着て、コーラスラインのようなものをどうやってやるかを考えようってね」
Q:なぜ彼の劇は『American utopia』と呼ばれているのですか?
「それは、僕が作ったアルバムの名前でもある。ふざけているわけでも、皮肉な意味でもない。僕がステージ上で行っていたこと、バンドがやっていたこと、そして曲が言っていたことのいくつかは、そのような意味を持っていたんだ。僕たち全員がより良い生活をするためにはどうしたらいいのかを発見しようとする切望について話していたんだよ。そこで僕は、それに倣いたいと思ったんだ。誠実に取り組んでいきたいし、その希望や可能性をステージ上で表現できないかと考えたんだ」
Q:なぜデヴィッド・バーンはトーキング・ヘッズを再結成させないのか?
「一言で言えば、僕たちは素晴らしいミュージシャンというよりも、友人として集まったのだと思う。音楽の趣味を共有していたという感じだね。そして、年齢を重ね、成長し、探求していくうちに、次第に音楽の好みが変わっていく。そうして、バンドが僕たちが行う仕事のようなものになっていった。全員がいつも一緒にいるわけではなくなった。結局、そうやって疎遠になっていったんだ」
Q:デヴィッド・バーンの最初のヒット曲は何ですか?
「状況によるね。最初の大ヒット曲は“Burning Down The House”だね。でも、その前の“Take Me To The River”はかなり良かったよ。かなり人気のある“Once in a lifetime”は、意外にも発売当時、ラジオではほとんど流れなかったんだ。ロック・ラジオにはファンキーすぎると思われていたんだよ」
Q:デヴィッド・バーンの最も演奏されている曲は何ですか?
「全くわからない。“This Must Be The Place”が多くの結婚式で演奏されていることは知っているよ。人々はこの曲で結婚するんだ。あるとき、ラスベガスで演奏したとき、バンドメンバーと僕は自転車で教会の前を通りかかったんだ。そこで僕は、ライヴの最中に結婚式を挙げるのはどうかと申し出て、この曲を歌ったんだよ」
Q:デヴィッド・バーンがアカデミー賞を受賞した理由は?
「『ラストエンペラー』 という映画のサウンドトラックを共同で書いてオスカーを受賞したんだ」
Q:デヴィッド・バーンを泣かせる曲は?
「僕は毎月プレイリストを投稿しているんだけど、その中に“僕を泣かせる曲”がある。たくさんある、少なくとも2時間分はあるよ。頭から離れないのは、ニーコ・ケースの“Honolulu”。この曲は子供に向かって怒鳴る母親の姿を目撃した曲なんだ」
Q:デヴィッド・バーンのダンスはどんな感じですか?
「それは意見が分かれるところだね。ある時、他の人がやっているのを見て、自分にはすべてのステップができないことに気づいた。だけど、なぜわざわざ習わなければならないのかと考えたんだ。それは彼らのものであって、僕は自分のもので考えなくてはならない。そうして少しずつ、自分に合った動きを取り入れていったんだ。“誰も見ていないかのように踊れ”という格言があるけど、僕もそのようにしているんだ。時々、人が見ていることもあるけど、その時は“何をやっているんだ?”という感じだろうね」
Q:デヴィッド・バーンはどこで始めたのですか?
「ロードアイランド州のプロビデンスにあるアートスクールで、友人たちとバンドを組んでいた。本当に遊び半分で、真剣にやっていたわけではない。キャリアを積むためにやっていたわけではない。そしてニューヨークに来て、CBGBsというクラブで演奏するためのオーディションを受けて合格してライヴをすることになったんだ。大きな計画はなかった。ただ、曲を作って演奏して、誰かに気に入ってもらえるかどうかを見てみよう、という感じだった。すると、何人かの人が気に入ってくれた。そして次に演奏したときには、さらに何人かの人が来てくれて、最終的には軌道に乗ったという感じだね。それはゆっくりとしたものだったけどが、それはそれで良かったと思う。もうちょっとタイトに、だらだらしないようにとか、そういうことを学んだよ」
Q:デヴィッド・バーンの大きなスーツはどこにありますか?
「正確にはわからない。クリーブランドのロックの殿堂にあったかもしれないし、どこかに保管されているかもしれないし、一人でツアーに出ているかもしれない。よくわからない。
[インタビュアー] サイズはお分かりですか。
「XLの前にXがいくつあるかってこと? わからないな。僕が重要視したのは、大きなスーツが太ったスーツに見えないようにすることだった。どちらかというとトランプのように、平らで、幅が広く、長方形であることが重要だったんだ」
Q:デヴィッド・バーンはどこで音楽を録音していますか?
「最近は、曲や音楽の最初の部分を自宅で録音することが多いね。ある程度の段階になったら、ちゃんとしたレコーディングスタジオに移動して、他のミュージシャンを呼んだりしているよ。それは、時間をかけられるという、今の僕たちが持つ贅沢のようなものだよ。何か気に入らないことがあっても、“ああ、うまくいかなかった”と恥ずかしい思いをすることもない。次の日の朝に“これを取っておこう”と思えばいい。プレッシャーは少し減ったけど、それでも、仕事を続けるための倫理観は必要だ」
Q:デヴィッド・バーンは今どこにいるのか?
「ここはどこ? コンデナストビルの20何階にいます」
Q:デヴィッド・バーンに音楽を紹介したのは誰ですか?
「両親だろうね。スコットランドのフォークミュージック、モーツァルト。ピーター・シーガーは彼らが演奏していたよ」
Q:デヴィッド・バーンは誰とコラボレーションしていますか?
「最近、オーストラリアのMontaigneというアーティストと曲を作った。彼女が一緒に曲を作ろうと声をかけてくれて、結局2曲一緒に作ったんだけど、すごくいい感じに仕上がったと思うよ。また、Mitskiというアーティストとは映画のための曲を作った。ヨ・ラ・テンゴとのコラボレーションは、ベン・ギバードがオノ・ヨーコの曲を集めたコレクション・アルバムを提案したことがきっかけだった。僕が選んだのは、とても古いもので、とてもきれいな曲だよ」
Q:デヴィッド・バーン「Psycho Killer」を誰がサンプリングしたのか?
「セレーナ・ゴメスの曲で、“「Psycho Killer”のベースラインのようなものを使っている曲があるよ。“Bad Liar”だったかな、そんな感じの曲だよ」
Q:デヴィッド・バーンに影響を与えている人は誰ですか?
「いろいろな人がいるよ。先日聴いた西海岸のGabrielsというグループはとても良かったよ。ブラジルの音楽家、カエターノ・ヴェローゾとも友達だ。彼が次に何をするのか分からないので、いつも刺激を受けている。最高のインスピレーションとは、その人の真似をするのではなく、もっと自分らしく、自分を表現し、自分なりの表現方法を見つけようという気持ちにさせてくれるものだと思うよ」
Q:デヴィッド・バーンは誰に似ていますか?
「若い頃、ニューオーリンズ・ジャズ・フェスティバルで、ガンボか何かを買うために列に並んでいたことがあった。すると若い男性が近づいてきて、“君のことは知っている。君が誰だか知っているぞ。君はノーマン・ベイツだ”(※小説/映画『サイコ』に登場する架空の人物)と言っていた。僕は、彼が僕を架空の人物だと思っているだけでなく、サイコな殺人者だと思っているのだと思ったよ」
Q:デヴィッド・バーンはどのようにして曲を作っているのですか?
「曲作りにはいろいろな方法がある。まず言葉から始めることもある。僕がミュージカルのために書いたストーリーがあれば、まず間違いなく言葉から始めなければならない。また、素晴らしい音楽的なアイデアや素敵なメロディーがあって、それに合う言葉を探してみることもある。
[インタビュアー] 初期の作品を振り返ってみて、今の自分は違う作家だと思いますか?
「はい、昔と今では書くものが違うと思う。時々、昔の歌詞が書かれた紙の切れ端を見つけることがある。その中にはまだ使えるものもある。でも、本当に役に立つのは、それを見て、今の自分なら絶対に書かないだろうなと思うことだね」
Q:彼はどうしてセイント・ヴィンセントを知っているの?
「確か『How Dark Was The Night』というタイトルで、ラジオシティで慈善コンサートを行ったんだ。僕はBowery Ballroomで彼女のライヴを見たことがあったので、彼女のところに行って、“君のライヴを見たけど、とても良かったよ。君のアルバムもとても気に入っているよ”と言ったんだ。そのあと、僕たちは再会し、誰かが僕たちにコラボレーションをしないかと尋ねてきたので、それをやったんだよ」
Q:デヴィッド・バーンは何曲持っているのですか?
「把握していません。毎日、曲を書いているわけではない。猛烈に曲を書く時期もあれば、まったく別のことをしている時期もあるよ」
最後に
「よし、これで終わりだ。次回は、もう少し形而上学的なもの、あるいはもう少し哲学的なものにしましょう。もうちょっと重みのあるものね」
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