赤塚不二夫の晩年に寄り添い「最期の赤塚番」といわれる山口孝(元スポーツニッポン編集記者でジャーナリスト)による、3人の「母ちゃん」を通して描く赤塚不二夫の評伝『赤塚不二夫伝 天才バカボンと三人の母』が内外出版社から発売中(8月31日発売)。
発売を記念した山口孝のインタビューが公開されています
株式会社内外出版社は、2019年8月31日、今年9月14日で生誕84年を迎える赤塚不二夫の伝記『赤塚不二夫伝 天才バカボンと三人の母』を発売しました。
著者は、赤塚の晩年に寄り添い「最期の赤塚番」といわれる山口孝氏(元スポーツニッポン編集記者でジャーナリスト)。山口氏に、赤塚不二夫との交流や、この作品が生まれる秘話などを語ってもらった。
質問「まず作品のことからお聞かせください。赤塚不二夫の「三人の母」というのは、どういうことなのでしょうか」
山口「一人は、赤塚の生みの母・りよ、二人目は最初の妻・登茂子、そして三人目が再婚した妻・真知子です。
実母、りよは、十歳の長男である赤塚を筆頭に4人の子どもを連れ、満州から引き揚げてきました。貧しいながらも赤塚に漫画と接する機会を与え、漫画家を志した赤塚を応援しました。
最初の妻、登茂子は、アシスタントとして、妻として、出世作『おそ松くん』を共に描き、
プロとしての漫画家・赤塚不二夫を育てました。
そして二番目の妻・真知子は、アルコール依存症になり、がんを患うなど、どん底に落ちた赤塚を世話女房として復活させ、その命をつなぎました。
この『三人の母』がいなければ、天才漫画家・赤塚不二夫は存在しえなかったと言えます。つまり、『三人の母』を通してはじめて、赤塚不二夫の実像に迫れるのではないか、そんな思いから、この作品を描きました」
質問「『最期の赤塚番』とのことですが、生前の赤塚不二夫とはどのような交流があったのでしょうか」
山口「赤塚さんとの出会いは、1992年。私がスポーツニッポン新聞社(スポニチ)の記者時代で『バカボンNY(ニューヨーク)に行く』という、漫画ではない、紀行文を依頼したのが最初でした。交渉は、『まあ、飲みなさい』というのが始まりで、その後はどんどん『赤塚不二夫』にはまっていきました。95年に、戦後50年を漫画家で振り返る『バカボン線友録』の長期連載を担当して。赤塚さんの記憶力、観察力、洞察力に舌を巻きましたね。『やっぱりこの人は只者ではない(飲んでないときは)』と実感しました。このころから、赤塚家に入りびたりになり、専用の上下のジャージ、パジャマもありました。スポニチの総務部長時代は、フジオ・プロのソーム部長も兼務(⁈)、公私の別はいつか境目を失っていました」
年越しの宴会のドッキリ。餅を食べて突然苦しむ赤塚さん、慌てて掃除機を手にした著者の姿を「パシャリ!」。人を喜ばせることが本当に大好きだった。
質問「この作品が完成するまでに、かなりの時間がかかったと聞いています。完成するまでの経緯を教えてください」
山口「この作品に取り組む、直接的なきっかけは2001年、赤塚さんから「僕の評伝を書いてみないか?」と勧められたことからです。当時、赤塚さんの自伝は何冊もありました(これが今回の作品を描くのに一番の曲者でした)が、赤塚さんのことを書いた、評伝はありませんでした。大それたこととは思いながら、挑戦することにしました。
資料を集め、関係者にインタビューし、書きはじめた矢先の2002年4月、赤塚さんは脳内出血で倒れ、一命はとりとめたものの、その後は意識が戻りませんでした。
『一番読んでほしい人がいない』。
そんな思いが強く、執筆は頓挫しました。
2006年には、一番の協力者でもあった二番目の妻の真知子さんが急死、赤塚さんも、最初の妻の登茂子さんも2年後の2008年に相次いで亡くなり、僕は、書き継ぐきっかけを失ったままでした。
真知子さんが亡くなってから、毎年の墓参り仲間から『本はどうなった?』と責められ続けていました。
一念発起したのは2017年。『宿題を終わらせるぞ!』と決意表明して、赤塚さんとの約束を果たそうと、再び評伝の執筆にかかりました」
質問「実際に赤塚不二夫と深く関わっていらっしゃったわけですが、赤塚不二夫は、どんな人だったのでしょうか」
山口「つかみどころのない人、というのが最初の印象です。赤塚さんが何かをするたびに、私には『変な人』でしたが、 真知子さんは「あれも赤塚、これも赤塚」と笑っていました。
ハチャメチャなときも、もちろん数多くありましたが、私にとって赤塚不二夫とは、気配りの人、サービス精神の塊、この2点に尽きます。赤塚邸での宴会で、タバコを切らしたことがありました。空箱をポケットに突っ込んだのですが、赤塚さんは気づいていた。すっと立ち上がると、ロングピースの箱を持ってきて「これしかないけど」と差し出した。僕の吸っている銘柄も知っていて……、この気配りに、私は『参った!』のです」
質問「忘れられないエピソードはありますか」
山口「食道がんの手術のときですね。私も付き添っていたのですが、10時間近い手術が終わった翌朝、麻酔も覚めて、ICUで、近親者の面会が許されました。私も入室したのですが、「先生、また飲めますね」と言った私に、グラスを握り小指を立てる、水割りを飲むパフォーマンスをしてくれました。さらに「仕事も待ってます」と畳みかけると、右手を振って「イヤイヤ」のポーズまでしました。こんな時でも、サービス精神を忘れない人でした」
1998年12月、スポニチ創刊50周年「感謝の集い」に出席した赤塚さん。50周年の「5」のポーズをとった。舞台から去る時わざとずっこけてしまった。会場は大爆笑、そして拍手の嵐。じつはこの日は、食道がん再発の告知がされた8日後のことだった。
質問「山口さんにとって赤塚不二夫とは?」
山口「もう一度会いたい人、会って飲みたい人ですね」
質問「この作品の読みどころはどこでしょうか」
山口「皆さんもテレビやマスコミで赤塚さんのイメージを持っていると思います。酒を飲んで、無軌道で、女に目がなくて……、といったイメージ。でも、その奥底、裏にある赤塚さんの真実、かな。
ひょっとしたら、皆さんが思い描く赤塚不二夫とは別の人のことを書いたのか、と思われるかもしれませんが、まぎれもなく、私が接し、一緒に過ごした赤塚不二夫、その人を書きました。意外性を楽しんでほしいですね」
強い、弱い、きれい、汚い……、あらゆる存在をあるがままに命懸けで肯定し続けた天才・赤塚不二夫。その天才を生み育てた「三人の母」を通して描く、赤塚不二夫の真実のストーリーとは。
赤塚不二夫生誕84年を迎えるこの秋、終戦の混乱期から復興し、昭和、平成を駆け抜けた天才の、知られざる愛のドキュメントです。