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『クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』発刊記念トークショー レポート到着

2018/11/19 21:02掲載
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クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル
クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル
『クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』発刊記念として、著者・佐藤利明が稲垣次郎をゲストに迎えて行ったトークショー<クレイジーキャッツとジャズの黄金時代>。当日のレポートが到着しています。

以下シンコーミュージックより

写真左より 佐藤利明(著者) 稲垣次郎氏

『クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』発刊記念として、著者・佐藤利明がスペシャルゲストに名サックス・プレイヤー稲垣次郎氏を迎え、<クレイジーキャッツとジャズの黄金時代>と題したトークショーが東京・代官山の蔦屋書店にて10月6日に開催された。

佐藤:本日はお集まりいただきありがとうございます、今回は<クレイジーキャッツとジャズの黄金時代>と題して、「スーダラ節」にいたるまでの、ジャズの時代のお話を、サックス・プレイヤー稲垣次郎さんをお迎えして伺っていこうと思います。

 「スーダラ節」は1961年8月20日に、クレイジーキャッツのデビュー曲として発売されたのですが、クレイジーの結成が1955年4月1日ですから結成から6年かかってのデビュー曲だったんです。しかもジャズマンなのにジャズ・ソングじゃないコミック・ソング。このことがこの後のクレイジーキャッツの運命を決めていくことになるんですが、月日が流れまして1986(昭和61)年に大瀧詠一さん作曲の「実年行進曲」c/w「新五万節」(大瀧詠一 編々曲)というクレイジーキャッツ結成30周年のレコードが出ました。今回の「クレイジー音楽大全」の表紙が「スーダラ節」で、裏表紙がこの「実年行進曲」c/w「新五万節」になっています。中にはグラビアがドカーンと80頁、これでクレイジーの魅力が分かり、本文では戦後の焦土の中で若者達がどうやってジャズと出会い、そこからどうやってクレイジーキャッツになっていったのかを、割と長く書かせていただきました。とにかく永久保存版を考えました。

 ということで、今日は<クレイジーキャッツとジャズの黄金時代>から深く関わっておられます、伝説のジャズ・サックス・プレイヤー稲垣次郎さんをお迎えして伺っていこうと思います。それでは1974年の「ファンキー・スタッフ」にのって稲垣次郎さんに登場いただきましょう、稲垣次郎さんどうぞ(場内大拍手)

稲垣次郎(以下稲垣):こんにちは、稲垣です。よろしくお願いいたします。(場内大拍手)
佐藤:日本のジャズ・ロックの先駆けの稲垣さん、西城秀樹さんやピンク・レディーのコンサートで演奏されたり、1975年の大瀧詠一さんの『ナイアガラ・ムーン』にも参加されています。そういった70年代以降の次郎さんの活躍はご存知だと思いますので、その前のジャズ時代のお話を伺おうと思います。
 (ハナ肇とキューバン・キャッツの写真を見せながら)真ん中がハナ肇さん、背の高いのが犬塚 弘さん、で、谷 啓さん、そしてとぼけた顔をしてるのが稲垣次郎さん。これは昭和31年のハナ肇とキューバン・キャッツ。谷 啓さんが入られてしばらくして次郎さんが辞められたんですけど、次郎さんは十代からジャズをやられてたんですよね。

稲垣:高校一年、昭和26年にはもうプロになってたんじゃないかな。
佐藤:クレイジーキャッツの面々も十代の頃からジャズに出会い、ジャズマンになっていくんです。ハナ肇さんはバンドボーイ時代に大学卒業の頃の植木 等さんに会って、谷 啓さんは学生時代にバンドを組んで石橋エータローさんにピアニストをお願いしてたり、昭和20年代にメンバーそれぞれの出会いがあった。
稲垣:僕がテナーサックスを始めたのが1950年だから昭和25年、その2〜3年前までハワイアン・バンドをやってた。キャバレーとか女の子がたくさんいる店で演奏して、当時は楽器を持ってたら仕事があった。上手くても上手くなくてもお金になった。
佐藤:昭和21年、十代のハナさんと植木さんが初めて会って一ヶ月くらい同じクラブに出て、その後昭和25年に再会するのが萩原哲晶とデューク・オクテット。次郎さんは萩原さんと会うにのはもう少し後ですね。
稲垣:(萩原さんは)その当時の最先端を行ってたんだよね。
佐藤:デューク・オクテットがギタリストを捜して居る──というのを聞いて植木さんがここぞと売り込んで入った。ドラマーはハナさん。ここで「スーダラ節」を歌った植木さん、ハナさん、曲を作って編曲をした萩原さんが揃うんです。それで犬塚さんも入ってきて、昭和27年に次郎さんは犬塚さんと築地のクラブで出会う。
稲垣:それはね、(犬塚さんは)秋吉(敏子)さんと一緒にやってたの。僕は秋吉さんは横浜まで聞きに行ってたから。東京でも何回か行きました。
佐藤:そういう時代。深夜までセッションをして、犬塚さんも“秋吉さんとやったのはジャズ人生に於いても大きなことだった“ってその頃の話はいつも仰ってます。それで一方谷 啓さんと次郎さんが会ったのは?
稲垣:その頃は進駐軍の仕事をするのに査定っていうのがあって、スペシャルAからDくらいまで。僕はスペシャルAで、横浜のグランド・シマっていう進駐軍専用のクラブで、その時の対バンのビッグ・バンドに谷 啓がいたんだよね。年代が同じだったから年がら年中会って話したのが最初。
佐藤:谷 啓さんは高校時代からキャバレーのバンドマンをやっていて、中央大学に入ってバンドを組んだ。名前がリズム・キャンパース。そこで進駐軍の店ですぐにお金になるようにメンバーにプロを入れようとして勧誘したのが石橋エータローさん。だからそのすぐ後くらいがグランドシマ。その後谷さんは原信夫とシャープス&フラッツに入る。そこで谷さんはおもしろいことやりたかったんだけどokしてくれなかった。その後、フランキー堺さんのシティ・スリッカーズに誘われたとのことですが。そこでやろうとした冗談音楽ってどんな風だったんですか?どなたがアレンジされてたんでしょうか?
稲垣:本物のスパイク・ジョーンズを聞いてればピストルとかラッパとか出てくるから、譜面に書いたのは岩井直溥さんっていうアレンジャーだったけど、スパイク・ジョーンズのコピーだった。
佐藤:そういう音楽にはプレイヤーとしては抵抗があった?
稲垣:あった。
佐藤:で、ここに昭和29年5月4日、共立講堂で行われた「ゴールデン・ジャズ」という出し物のパンフレットがあるんですけど、そこでサックスは稲垣次郎さん、トロンボーンは谷 啓さん、ピアノは桜井センリさんで、ギターは鈴木康則さん。この時はまだ植木さんが入ってない。この鈴木さんが辞めることになって急遽植木さんに白羽の矢が立った。
 1954(昭和29)年に守安祥太郎さんか参加された幻の横浜モカンボ・セッションが行われたんですけど、これを企画したのが植木 等さん、ハナ肇さんと沢田駿吾さんの三人。
稲垣:沢田駿吾っていうのはね、すごいパワーがあったんですよ。
佐藤:そうやってモダン・ジャズに傾倒していた植木さんがいきなりフランキー堺のシティ・スリッカーズに入るというのが面白いところで。最初植木さんが入ってきた日のことって覚えてます?谷さん、植木さんの記憶とも違うみたいなんですが。
稲垣:本当の話はね、NHKのあった内幸町で一番大きいダンスホールでリハーサルをやってたんですよ。その時に脇に大きなドアが4つくらいあって、そのひとつ先のところから植木が “おおっ〜”て手を挙げてあの感じで入ってきた、みんなは“なんだこの野郎”って言ってね。
佐藤:それが最初、でもその後で日劇で初ステージを踏むわけですよね。で、昭和29年6月20日の日比谷公会堂の出し物では、サックス稲垣次郎、トロンボーン谷 啓、ギター鈴木康則、ピアノ桜井千里というメンバーなんです。ところが、同じ日に掛け持ちで共立講堂のビッグ・バンド・ジャズに出ているのがサックス稲垣次郎、トロンボーン谷 啓、ピアノ桜井センリ、でなんとギター植木 正!──謎ですね。等じゃなくて正とあります。印刷物ですから、片方は植木さんへの変更が間に合って、片方は間に合わなかった──のかな。一ヶ月後の7月25日、鎌倉公民館の早稲田OB主催のジャズ・コンサートでは、シティ・スリッカーズに植木 正さんで名前が残っています。その頃は日劇がホーム・グラウンドで、日劇の屋上で撮った写真にはもうモダン・ジャズ・プレイヤーの面影はなく、面白可笑しい雰囲気ですね。で、ステージでは演奏だけじゃなくコントみたいな形にどんどんなっていったと。
稲垣:そうそう。
佐藤:次郎さんと植木さんは8歳違い、結構年上の人だったんですね。でもその頃の写真を見るとものすごく仲良しですよね。
稲垣:とにかく年がら年中一緒にいました。
佐藤:この頃になるとフランキーさんが映画に出始めていて、時代劇なんだけどバンドも一緒に演奏シーンで出てます。ジャズ・バンドとしての活動ではないですよね。フラストレーションあったんじゃないですか?
稲垣:もう、フランキーのバンドにいること自体がフラストレーションだった。
佐藤:何をやろうとね、日劇の舞台でも楽器は持ってるけどアチャラカ芝居みたいで、みんなでコントをやってる。で、同じ頃クレイジーキャッツを創ることになるハナ肇さんはコンボ・バンドをやろうと犬塚さんに声をかけてできたのが、ハナ肇とキューバン・キャッツ。その頃植木さんがいたバンドは萩原哲晶さんがバンマスのデューク・セクステット、そこでハナさんが楽屋に入って行ってベースの犬塚さんを引き抜くんです。で、萩原さんも面白そうだから僕も行きますといって参加するんですけど、次郎さんがこのキューバン・キャッツに加わるのは(昭和30年4月に)結成してしばらくしてからですよね。
稲垣:僕はシティ・スリッカーズは丸一年で辞めたんです、昭和29年から30年。辞めた原因っていうのはやっぱり、フランキーさんとトラブッたんじゃなかったかな。
佐藤:フランキーさんと。
稲垣:あんまり冴えない、協力的じゃない顔をしてやってたから。だってスタン・ケントンだと思ってやてったら、スパイク・ジョーンズの冗談音楽で、スパイク・ジョーンズをやってるうちにフランキーさんがいなくなっちゃって、ただのダンスバンドになっちゃった。
佐藤:桜井千里さんも、全然方向が違ってきちゃって──って仰ってましたね。で、キューバン・キャッツですけど、次郎さんが入ってしばらくして萩原さんが辞めて、谷さんが参加。シティ・スリッカーズからキューバン・キャッツに移るときは次郎さん、谷さんの順なんですけど。
稲垣:ナベシン(渡辺晋)が引き抜いたって話があるけど、それは嘘、ナベシンはキューバン・キャッツなんかに何の興味もなかった。
佐藤:(渡辺プロ)社長ですからね。
稲垣:番頭で松下(治夫)っていうのがいてね、スゴく頭がキレた。
佐藤:後の「シャボン玉ホリデー」を作る人で、今の渡辺プロのマネージメント・スタイルを確立した方。松下さんが番頭で、ハナさんは何かあると渡辺晋さんに相談して。それから次郎さん、谷さん、一年おいて植木さんが移ってきて。その辺りシティ・スリッカーズのマネージャーは怖かった?
稲垣:どちらかというとヤーさんに近い。仕事はよくやったんだけど、皆の評判は悪かったね。
佐藤:谷さんは怖かったって言ってましたね、脱退の話を切リ出した以上二度とバンドに戻れないとキューバン・キャッツに移ったって。植木さんは切り出せなくて、一ヶ月分の給料をもらわず黙って来ちゃった。
稲垣:たしか「仕事できねぇようにしてやる」って脅かされた。
佐藤:後に東宝のプロデューサーになってたので、スタジオで出くわすのがイヤだったって谷さんは仰ってました。
稲垣:仕事はスゴいんだけど人間的にはダメだね。
佐藤:そしてキューバン・キャッツには石橋エータローさんが加入して次郎さんが抜けて植木さんが入って。
稲垣:キューバン・キャッツが京都のスケートセンターに出てたんだけど、そのとき松下が来てね、今度クレイジーキャッツって名前に変えるぞ!ってそこで初めて言われた。だから松下が考えたのか、ハナ肇が考えたのか。
佐藤:公式な説では、米兵がギャグを見て、「YOU CRAZY!」って言ったのでクレイジーキャッツになったって。
稲垣:それはそうなんだけど、本当にクレイジーキャッツにするぞって言ったには松下。
佐藤:そこはマネージャーですね。そこでクレイジーキャッツになって、次郎さんは離れた後は、またジャズに戻られて。
稲垣:ハナ肇の所を辞めてジョージ川口の所に行ったんだけど、どうもジョージさんと合わないなぁって感じたんです。煽りまくられたけど何もできねぇなぁって。その後どうしたんだっけかな──そのころもうメチャクチャに変わってるからね──沢田駿吾のバンドに入ってね。それから自分のバンド。
佐藤:そうやってジャズの時代を行く一方、クレイジーキャッツは1959(昭和34)年3月からテレビで「おとなの漫画」が始まり、映画にたくさん出るようになり、1961(昭和36)年からは「シャボン玉ホリデー」が始まり、昭和35年に石橋エータローさんが結核でお休みになって、急遽参加したのが桜井センリさん。まさかこういう形で桜井さんが入るとはメンバーの誰もが思わなかった程、桜井さんは真面目な方だった。ジャズマンとしてキャリアもあって。
 こうやってクレイジーキャッツは人気が出ていきます、この辺りのことは皆さんもご存知だと思います。この頃のクレイジーは「ジャズも演奏できるんですね──」と言われる時代。コミックがメインでたまにテレビで演奏したりしていました。昭和42年にはラスヴェガスへ映画を撮りに行く寸前にも地方の商店街向けに体育館でクレイジーキャッツは営業の舞台をやっていました。
 クレイジーキャッツも60年代の後半になると人気がドリフターズと入れ替わるようになって活動が静かになっていく。そして1970年代後半になってクレイジーの再評価で、クレイジーキャッツ・ブームが起こるんですけど、その立役者の一人がこの稲垣次郎さん──というのが今日の最後のパートになります。
 次郎さんは大瀧詠一さんの1975(昭和50)年5月30日発売の「ナイアガラ・ムーン」というアルバムに参加されてサックスを吹いてらっしゃる。「楽しい夜更かし」では「♪真夜中のDisc Jockey〜特集はCrazy Cats」って歌われて。
大瀧さんとは1977(昭和52)年の「三ツ矢サイダー」のCMとか、はっぴいえんど解散の時のコンサートの〜〜とかに稲垣次郎グループで参加されますが。この『ナイアガラ・ムーン』の頃、大瀧さんは次郎さんがキューバン・キャッツに参加されていたことを知らなかった。この時はまさしくスタジオ・ミュージシャンとして次郎さんは参加された。
 で、後で大瀧さんは次郎さんがシティ・スリッカーズ〜キューバン・キャッツで活躍されてたことを知って連絡されてきた。
稲垣:それでフランキーのLP盤をリミックスするから(1986年『スパイク・ジョーンズ・スタイル』)、フランキーを紹介してくれないかっていうんで連れていった・
佐藤:そして谷さんと大瀧さんとフランキーさんでの座談会がライナーノーツの中に入ってますけど、その前にコレですよね、大瀧さんがラジオ関東でやってらしたラジオ「ゴーゴーナイアガラ」で初めてクレイジーキャッツの特集が放送されたのが昭和50年9月2日。そのゲストがハナ肇さんで、ハナさんを大瀧さんに紹介したのが稲垣次郎さん。その頃僕は小学6年でしたけど、エア・チェックをして聴いて、それからハマって僕はここにいるわけですから、その道を作ってくれたのが次郎さんになるわけです。
 後に大瀧さんはクレイジーキャッツ結成30周年ということで、『クレイジーキャッツ・デラックス』というコンピレイション・アルバムを作られて、それが僕らにとっての<クレイジーキャッツ体験>となっていくわけで。大瀧さんは昭和61年にテープで発売された『ハナ肇とクレイジーキャッツ全曲集』に、かって発売禁止になった幻の「五万節」を入れてるんですよ。それを聴いた僕らはびっくりしたんですけど、それも次郎さんと大瀧さんが出会ったからで。次郎さんは大瀧さんの『ナイアガラ・トライアングルVol.2』辺りまでは参加されてますよね、大瀧さんってどんな人ですか?
稲垣:相当内容のある人ですよ。なんて言うのかな魅力がある。ジャズ屋にはああいうタイプの人間はいない、おおよそジャズ屋は何の責任もとらないヤツばかりだから、大瀧みたいなのがいるロックの世界はちゃんとしてるなぁって、僕は思います。
佐藤:「ナイアガラ・ムーン」を出したエレック・レコードが傾いて、その後ナイアガラはコロムビアに移るんですけど、そこでも次郎さんは一緒に参加されて。
稲垣:エレック・レコードは一時すごくよかったんですけど、沢田駿吾が取締役で参加した辺りからおかしくなった。沢田駿吾が悪いかどうか分からないけど。
佐藤:徳川夢声『宮本武蔵』の100枚組朗読LPとか出して大変なことになっちゃった。
稲垣:その責任もあるのかな。
佐藤:大瀧さんは一時期、間借りというか、稲垣次郎とソウル・メディアの事務所に出入りしてた時代があったそうですが。
稲垣:間借りというかベルウッドがパンクした時に大瀧のマネージャーだった前島って男が役員で入ってきたんだよ。で、前島がマネージメントしてた中に、はちみつぱいとかムーンライダースとか岡林信康、高田渡とかがいて。
佐藤:歴史を作ったそうそうたるミュージシャンたち。
稲垣:で、大瀧を名義上うちの所属にしておいたんだよ。
佐藤:クレイジーキャッツと大瀧詠一さんの陰に稲垣次郎さん有りということを皆さんに認識していただいて、その後クレイジーのメンバーとは、クレイジーキャッツ全盛時には次郎さんはほとんど交流はないんですけど、1985(昭和60)年、ハナ肇とオーバー・ザ・レインボーというハナさんのプライヴェート・バンドをとりまとめられたのが次郎さん。これはどんな経緯だったんですか?
稲垣:これはね、30〜40年前だったかな、フランキー堺からキューバン・キャッツ以来の電話があって、実はバンドを作りたいんだけどやってくれないか──って話があって、でも夢みたいな話で、リズム隊は全部電気楽器にしてそれで尚かつジャズがやりたいって。でもそれはムリだから止めた方がいいですよ──って言ったんだけど、絶対にやりたい、これからはロックのリズムは絶対に来る、やらなきゃダメだ──って頑に言って。読みは間違ってないんだけどおよそ出来ないことを言ってるんだよね、で考えるからって事務所に帰ったら、今度はハナ肇から電話があって、これも30何年ぶりで。実はオーケストラじゃないバンドを作りたい──って言うから、いいんじゃないの実は午前中にフラさんからこういう話が来てって話して。結局それは断っておくから、という経緯でオーバー・ザ・レインボーはできたんです。
佐藤:すごいですね、それは。昭和30年頃のフランキーさんとバンドをやりたいっていうのを再現しちゃってるわけで、──フランキーさんがバンドをやりたい──うまくいかない、で、ハナさんがバンドをやりたい、次郎さんは参加して宮川泰先生も加わって、理想的なバンドで、ハナさんが亡くなるまでオーバー・ザ・レインボーとして活躍されていくわけですけど。
稲垣:初めは谷啓とかが入ってる6人のバンドだったんだけど、話の途中で、ビッグバンドの曲を入れてと突然言い出した。それでそのビッグバンドのダンス・ミュージックの譜面が家には山のようにあったから、じゃそれを片っ端からやろうということで。
佐藤:ビッグバンド化するわけですね。
稲垣:だから死ぬまでビッグバンドだった
佐藤:ジャズ・フェスティヴァルのような大きな野外でやる時は大編成で、もちろん谷さんはスーパーマーケットを持ってましたから。そのスーパーマーケットも次郎さんは参加されてますよね。そういう意味でいうと、クレイジーキャッツのメンバー皆さんと色んな所で出会いがあって、メインストリームの時は次郎さんはいないけど、いざとなると助っ人として出てくる──というのを、次郎さんに加わってもらって今日、話がしたかったんです。次郎さんは今でも現役でレコーディングされたりステージに立たれたりしてますけど。というわけで、今日は稲垣次郎さんにクレイジーキャッツの時代のお話を伺いました。本当にありがとうございました。
稲垣:どうも。
佐藤:ありがとうございました。盛大な拍手を!(場内大拍手)本日は『クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』発売イベントにご参加いただきまして、ありがとうございました。

この後、サイン会が行われた。

●『クレイジー音楽大全 
クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』
佐藤利明 著
◎完全ディスコグラフィーと詳細な解説。豊富な資料でヴィジュアルを構成。◎カラーページに全ジャケット写真(60枚超)等を掲載し、詳細なディスコグラフィーを網羅。クレイジーキャッツの、現存する写真もふんだんに使用。
A5判/272頁/本体価格2,500+税/発売中
ISBN:978-4-401-64632-6