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ビートルズを広め、ピンク・フロイド『原子心母』を名付けた 日本の音楽業界を代表するミュージックマン、石坂敬一が死去

2016/12/31 23:56掲載(Last Update:2017/01/01 02:07)
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石坂敬一
石坂敬一
日本の音楽業界を代表するミュージックマン、石坂敬一が12月31日に死去。同日午前、東京都内の自宅で倒れているのを家族が発見しています。71歳でした。

音楽ディレクターとしてビートルズを広め、ピンク・フロイドの『原子心母』など印象的な邦題のアルバムを世に送り出し、また、BOØWY、松任谷由実、矢沢永吉らを手がけたことで知られています。

■石坂敬一(wikipediaより)
石坂 敬一(いしざか けいいち、1945年8月25日 - 2016年12月31日)は、日本の実業家・音楽ディレクターで、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)、日本ポリグラム〜ユニバーサルミュージックで数々の実績を残し、経営に尽力した。日本レコード協会顧問。2011年11月1日より、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長 兼CEOに就任。2014年4月よりワーナーミュージック・ジャパン取締役名誉会長。レッドツェッペリンやディープパープルのファンで有名。

<人物>
埼玉県出身。石坂敬一の祖父母双方の従兄弟に石坂泰三(第二代経済団体連合会会長)がいる。
東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)在籍時には名物ディレクターとして名を知られ、洋楽制作部時代にはザ・ビートルズやピンク・フロイドを手がけ、邦楽制作本部時代には原田知世、薬師丸ひろ子、本田美奈子らを育てる。 クリエイションを米・豪で売り出し、日本のロックの海外進出の足掛かりを作った。 また、前・所属会社で実績が伸びなかったBOØWYや矢沢永吉を移籍させ、復活させた事でも知られる。
1994年11月にポリグラムの日本法人である日本ポリグラムに転職し、同社取締役社長に就任。1998年にMCAレコードを保有するシーグラムが、ポリグラムを買収した事に伴いユニバーサル・ミュージックが発足。1999年に日本ポリグラムから社名変更したユニバーサルミュージック株式会社(現:ユニバーサルミュージック合同会社)の代表取締役社長、CEO、会長などを歴任した。在任中は邦楽制作の強化と経営改革を積極的に推進し、2008年には同社をCD生産額で業界シェア第 1位に押し上げた。また公職として、社団法人日本レコード協会の会長を2007年7月から2011年5月にかけて務めた。

<経歴>
1968年 - 慶應義塾大学経済学部卒業後東芝音楽工業入社、邦楽、洋楽制作部→宣伝部→邦楽統制本部長→邦楽制作本部長を歴任
1988年 - 東芝EMI取締役
1991年 - 東芝EMI常務取締役
1993年 - 東芝EMI専務取締役
1994年 - ポリグラム代表取締役社長
1998年 - ユニバーサルミュージック株式会社 代表取締役社長
2001年 - ユニバーサルミュージック株式会社 代表取締役社長兼CEO
2006年10月 - ユニバーサルミュージック株式会社 代表取締役会長兼CEO
2007年7月 - 日本レコード協会会長
2009年1月 - ユニバーサル ミュージック合同会社 最高経営責任者兼会長
同年11月 - ユニバーサル ミュージック合同会社 会長、藍綬褒章を受章
2010年11月 - ユニバーサル ミュージック合同会社 相談役
2011年5月 - 日本レコード協会会長を退任、顧問に就任
同年10月31日 - ユニバーサルミュージック合同会社 相談役を退任
同年11月1日 - ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長 兼 CEOに就任
2014年2月25日、ワーナーミュージック・グループが石坂の退任を発表、4月1日付けをもってワーナーミュージック・ジャパン取締役名誉会長に就任することと、10月末まで同職で新体制移行に務めることを併せて発表した[3]。
2015年11月、旭日中綬章受章。


訃報を受け、湯川れい子らが追悼コメントを発表しています