
David Bowie / Young Americans
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)が1975年3月7日にリリースしたスタジオ・アルバム『Young Americans』が発売50周年を迎えました。これを記念して、プロデューサーの
トニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)とギタリストの
カルロス・アロマー(Carlos Alomar)がニューヨーク・ポスト紙の新しいインタビューの中で、本作について振り返っています。
『Young Americans』は、フィラデルフィア・ソウル(フィリー・ソウル)への接近で自らを“プラスティック・ソウル”と称するまでの変貌を遂げた作品ですが、レコーディングのためフィラデルフィアに降り立った時、すべてのミュージシャンに歓迎を受けたわけではありませんでした。
ヴィスコンティによると、フィリー・ソウルの名作曲コンビ、ギャンブル&ハフのケニー・ギャンブルとレオン・ハフは「僕たちと仕事をしたがらなかった」という。1970年代にオージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ、ビリー・ポールらヒット曲を手がけたギャンブル&ハフは、英国人であるボウイが自分たちのテリトリーに侵入することを快く思っていなかったそうで、「彼らは実際に“白人の坊やに俺たちの音楽を盗まれたくない”とか何とか言っていた」とヴィスコンティは振り返っています。
本作で大活躍したアロマーはボウイとの出会いを、こう振り返っています。
「俺は彼を必要としていなかったが、彼には何かが必要だった。俺たちはお互いに惹かれ合ったんだ。(あの頃の彼はひどい顔色だったので)俺は彼には“おい、ひどい顔しているぞ。ちゃんと食べなきゃだめだ! うちにきて、手料理を食べろ!”と言わなければならなかった。一緒に夕食を食べて、楽しい時間を過ごしたよ」
アロマーは親友の
ルーサー・ヴァンドロス(Luther Vandross)をアルバムのセッションに連れてきました。後にR&B界の伝説となるヴァンドロスは、そこでは、ヴィスコンティの表現を借りれば、バック・ヴォーカルの「合唱団長」を務めました。その中には、当時ボウイが交際していたアヴァ・チェリーもいました。
ヴィスコンティはヴァンドロスについて、こう振り返っています。
「彼は本当に素晴らしい人だった。彼は本当にフレンドリーで親切で、天才だった」
ヴァンドロスの貢献は非常に大きく、「Fascination」では共作者としてクレジットされています。
「もともとは“Funky Music”というタイトルだった。それがオリジナルのタイトル。デヴィッドは、少し平凡すぎると思ったんでしょうね」
ヴィスコンティは、『Young Americans』のレコーディングが完了したと考え、アルバムのマスタリングのために英国に戻りましたが、ボウイから2曲を追加したいという連絡がありました。ヴィスコンティはこう振り返っています。
「私はロンドンに戻ったのですが、彼は本当に親切な人だったので、私に電報を送ってくれたんです。“トニー、こんなことを言って申し訳ないんだけど…。昨夜、ジョン・レノンと一緒にスタジオにいて“Fame”という曲を録音したんだ”とね。
私は“なんてことだ、あと1週間いられたらなあ”と思ったよ。私が離れてから、ほんの数日後のことだったのでね。大きなチャンスを見逃してしまったんだ。壁に止まったハエでもよかったから、そこにいたかったよ」
ボウイは、
ジョン・レノン(John Lennon)が作曲した
ビートルズ(The Beatles)「Across the Universe」のカヴァーも一緒にレコーディングしましたが、ヴィスコンティによると、ジョン・レノンはこのカヴァーに否定的だったという。
「彼はジョン・レノンがそれを喜ぶだろうと思ったが、ジョン・レノンはその後、彼にこう言った。“なぜAcross the Universeを録音したかったのかわからない。僕はそれよりいい曲を書いたのに”」
ヴィスコンティは『Young Americans』についてこう振り返っています
「『Ziggy Stardust』の再来を常に望んでいたファンに衝撃を与えた。ファンは、『Ziggy Stardust』こそが彼の最高の栄光だったと考えていたからね。
イギリス訛りの強いこのイギリス人男性が、フィラデルフィアに行ってファンキーな音楽を作りたいと思っている...それは多くの人が成し遂げられることではない大きな変貌だった。しかし、彼はそれを成し遂げたんだ」