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スージー・クアトロ、エルヴィス・プレスリーとの逸話やロックンロール人生について語る エルヴィスからの招待を断ったことも

2022/12/29 19:17掲載
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Suzi Quatro
Suzi Quatro
スージー・クアトロ(Suzi Quatro)はカヴァーEP『Uncovered』にあわせて行われたTIDALのインタビューの中で、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)についての逸話や、ロックンロールにおける彼女の輝かしい人生について話しています。音楽にのめり込んだきっかけだったエルヴィスから招待されたことがあったものの、断ったことなどを語っています。

Q:新しいEPはサン・レコードから発売されており、ある意味で一巡していると言えますね。『エド・サリヴァン・ショー』でエルヴィス・プレスリーを見たことが、あなたが音楽にのめり込んだきっかけでした。

「人生の転機とは面白いものですね。あれが私のキックオフポイントでした。そして今、私は72歳です」

Q:エルヴィスと同じレーベルに所属しているのは名誉なことでしょうね。

「そうね。でも、EPで彼の曲をやるのは控えました。私はこれまでリリースしたすべてのアルバムでエルヴィスをカヴァーしているし、私がエルヴィス・フリークだってことは、みんな知ってるから、またやる必要はない。今回は息子とさらに遠くへ行きました。その結果、私に影響を与えた素晴らしい多彩な楽曲にたどり着いたのです」

Q:エルヴィスの話に戻ります。あなたの有名な革のジャンプスーツは、彼が68年のカムバック・スペシャルで着ていた革のスーツからインスピレーションを得たものなのでしょうか?

「即答でイエスです。私の人生には、ありえないほど様々なエルヴィスのエピソードがあります。最初は『エド・サリバン・ショー』に出演したエルヴィス。私は“これをやるんだ”と思いました。自分が女性であることは考えもしなかった。私の頭には浮かばなかったんです。

それから話しはカムバック・スペシャルまで早送りして、私は14歳からツアーに出ていました。64年にバンドを始めて、その4年後の68年にテレビをつけたら彼が革の服を着ていた。それで、初めて革のジャケットを買いに行きました。

1971年になると、私はクレイドル、つまり(私の初期のバンドである)ザ・プレジャー・シーカーズのセカンドウェーブ(改名後の活動)にいた。私は後ろに追いやられ、ベースを弾いていただけでしたが、それでもよかった。別に気にならなかった。その結果、ベースがとてもうまくなった。(イギリスのプロデューサー)ミッキー・モストがモータウンでレコーディングするためにデトロイトに来たとき、同時に彼は私がいたバンドを見に来た。私たちは2曲やった。1曲目は私が書いた“Brain Confusion”で、もう1曲は“Jailhouse Rock”だった。ミッキーが私を会場の後ろに呼んで“君だけが欲しい”と言った。

その後、1973年(クアトロが現在住んでいるイギリスへ移住した後)になり、私はファースト・アルバムを作ろうとしていた。“Can the Can”が大ヒットして、“All Shook Up”を録音した。そして74年、自分のイギリスのバンドと一緒に再びアメリカに渡り、ヒットを飛ばした。

ツアーでメンフィスのホテルの部屋にいた。“All Shook Up”がチャートの下位にいた時、ホテルの部屋の電話が鳴った。エルヴィスの関係者からだった。 その一報から立ち直る間もなく、彼が電話に出たので、私は死にかけた。彼は“やあ、エルヴィスだ、 君のヴァージョンのAll Shook Upを聴いたけど、俺のヴァージョン以来、最高の出来だと思う。グレイスランドに招待したい”と言ってくれた。私は緊張していなかったけど、彼に会う準備ができていなかった。もう少し時間が欲しかった。だから、“忙しいんです”と言って、会わなかった。後悔はしていません。彼が死ぬなんて知らなかったんだから」

Q:このEPには素晴らしい楽曲が収録されています。私のお気に入りはジェームス・ブラウンの「The Boss」です。

「息子(ソングライター、プロデューサー、ミュージシャンであるリチャード・タッキー)と一緒に作りました。いろいろな曲について話し合いましたが、私は彼を信頼しています。この曲は彼の提案でした。私は“リチャード、私には無理だと思う”と言うと、彼は“頼むよ、母さん、僕を信じて”と言ってくれた。レコーディングを重ねるうちに、どんどんのめり込んでいった。最後のものができたとき、“これはいい”と思いました。みんなこれを一番気に入ってくれています。彼は正しかった。私はジェームス・ブラウンの大ファン。ずっと大ファンなんです。

1960年代後半にデトロイトにいたとき、彼がコボ・ホールに来て演奏した。私のボーイフレンドが大ファンだったので、チケットを買ってくれた。私たちは観に行った。ジェームス・ブラウンがステージで爆発していた。あんなの見たことなかった。忘れられない。最後には部屋の明かりを点けて“さあ、歌うぞ。みんなで歌おう。この曲を、大きな声で歌おう! 俺は黒人だ、誇りだ!”と言っていた。私は観客を見た。そこには白人は私たちだけでした。彼氏に“どうする?”って聞いたら“歌おう!”と言った。そして歌いました。それがきっかけで、私はブラウンの生涯のファンになったんです」

Q:あなたのドキュメンタリーの中で、多くのアーティストがあなたに敬意を表しています。これは、あなたにとってかなり特別なことだったのではないでしょうか?

「自分が何をしたのか、まったく分からなかった。私は私でいたかっただけ。それが何か違うということさえ分からなかった。正直なところ、2019年にドキュメンタリーのプレミア上映会に行くまで、自分がしてきたことに気付いていなかった。観客と一緒にこっそり見たかった。判断できるのは、観客が自分がそこにいることを知らずに見て、その反応を聞いたときだけだと思ったから。このドキュメンタリーを見ていると、デボラ・ハリー、クリッシー・ハインド、キャシー・バレンタイン、ジョーン・ジェット、シェリー・カーリー、KTタンストールなど、誰もが同じことを言っていた。私がいなかったら、誰も楽器を手にしなかっただろうと。私は泣いた。劇場の脇で泣いていた」

Q:ドキュメンタリーの中で、あなたはステージ上ではロックンロール・アニマルでありながら、実際にはセックス、ドラッグ、ロックンロールというライフスタイルを送っていなかったと明かしていますね。

「私は5人きょうだいの厳格な家庭で育ちました。両親は酒もタバコもやらなかった。私はカトリック教徒として育てられました。父はミュージシャンで、私もかなりまじめな方ですが、ステージに上がると何かが乗り移るんです。私はセックス、ドラッグ、ロックンロールではないけれど、ロックンロールなんです。私は全身全霊を傾けて自分のすべきことをしています。自分のしていることが大好きなんです。私にとって仕事であったことは一度もありません」

Q:アメリカでの大ヒット曲「Stumblin' In」は、あなたらしくない曲でしたね。

「自分じゃないみたいだった。大ヒットが自分じゃないなんて、おかしな話だけど、ともかく世界中で大ヒットし、世界中で愛された。(米ドラマの)『ハッピーデイズ』は、アメリカで私の地位を大きく確立させてくれた。No.1番組だった。みんなはレザー・トスカデロとして知っていたけど、スージー・クアトロが実在の人物だった。そこに“Stumblin' In”が登場した。それはそれでいい。歴史を書き換えることはできないし、歴史に口を出すこともできない」

Q:あの曲はどのようにして生まれたのでしょうか?アメリカでブレイクしようとしたのでしょうか?

「何の意図もありませんでした。(プロデューサー兼ソングライターの)マイク・チャップマン(クアトロの大ヒット・シングルのいくつかを手がけた人物)とまた仕事をすることになった。また一緒に仕事をしようと決めて話し合ったんだけど、彼は“君とは全く違うことをやってみたいんだ。これまでずっと同じようなことをやってきたけど、ちょっと違うことをやってみないか”と言われました。

そのあと、ドイツで行われたアワード・ショーの後のパーティーで、バンドが演奏していた時に“ジャムろう”と言って、クリス・ノーマンを捕まえて、バンドとジャムり始めました。マイク・チャップマンは客席にいました。彼はそれを見て“好きだ。聴いていて楽しいよ”と言っていました」