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キッスのジーン・シモンズ、ボブ・ディラン/フランク・ザッパ/ルー・リード/エディ・ヴァン・ヘイレンとの逸話を語る

2022/11/23 18:46掲載
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Gene Simmons - KISS
Gene Simmons - KISS
キッス(KISS)ジーン・シモンズ(Gene Simmons)は、ボブ・ディラン(Bob Dylan)と過去に行った共作についてや、フランク・ザッパ(Frank Zappa)ルー・リード(Lou Reed)エディ・ヴァン・ヘイレン(Eddie Van Halen)との逸話について語っています。英Classic Rock誌企画

■ボブ・ディラン

「ザッパの次に重要なのは、ボブ・ディラン。ポップカルチャーの中で、これ以上の作詞家はいないだろう。ディランは俺にとって古典的な詩なんだ。

忘れもしない、ある日突然、彼から電話がかかってきた。俺が“ヘイ ボブ ”と言ったら“ヘイ オーライ、ミスター・キッス”と言っていた。彼はいつもミスター・キッスと呼んでいた。今でもジーン・シモンズとは呼んでくれない。俺が“元気か”と言うと、彼は“***(※シモンズがディラン風に何かを言う)”と言っていたので“えーと、何て言ったの、ボブ?”てな感じだった(笑)。彼の声はすぐにわかる。他のどんな人間もあの音は出せない。どこの国の声なのか、どこの町の声なのか、よくわからないけどね。

テープがあるんだ、全部録音したんだよ。“君と書きたいんだ、ボブ”と言うと、彼は“わかった...***(※シモンズがディラン風に何かを言う)”と言った。俺は考えた。“彼は時間と場所を知りたいのかな?”。それで“この日の何時何分はどうだ?”と言ったら、彼は“いいよ”と言った。案の定、彼はそこにいた。小さなバンが停まって、二人でアコースティックギターを取り出した...いや、アコースティックとエレキを一本ずつだ。僕がアイデアを出したら、彼が“こんなのはどうだ? やってみて”と言ってきた。

彼の歌詞に対抗してメロディを歌ったら、45分くらいであっという間に曲ができた。でも、もちろん歌詞はなく、メロディとコード構成だけで、ボブはいなくなってしまった。それが1994年のことで、8年か9年かかった。俺はボブに“歌詞を書け!”と何度もせがんだ。“いや、ミスター・キッス、君が歌詞を書くんだ!”“ボブ、お前が歌詞を書けよ! だから呼んだんだ!”“いや、君が書くんだ(意味不明)”とね、しつこくやり取りしたんだ。

結局、彼に歌詞を書いてもらうことができなかったので、苦し紛れにソロ・アルバムを出したときに、これ以上待てなくて歌詞を書き上げた。ボブはそれを気に入ってくれたよ。“Waiting For The Morning Light”という曲で、旅先の男が電話の横にある恋人の写真を見て、そこで一晩中起きていて、朝の光を待っている、という内容だ」



■フランク・ザッパ

「彼の息子のドゥイージルは知り合いで、彼は俺が発見したギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンからギターを習った。だから、何となく一巡する。ドゥイージルはフランクが亡くなる前にフランクに会わせてくれて、音楽や人生哲学など、いろいろな話をするようになった。彼が亡くなってから、彼の家族が集まって、彼の死後に何かやろうという話になった。

俺が未完成のフランクの作品はないのかと尋ねたのは、それらを完成させて家族に生き延びてほしいと思ったからで、“Black Tongue”というタイトルで一緒に仕事をすることになった。30秒間のループの上に曲全体を構成し、俺がすべての楽器を演奏し、ザッパ・ファミリー全員を参加させた。ザッパの歴史の中で、残った家族全員が同じマイクを囲んで実際に歌った唯一の曲だよ」

■ルー・リード

「(プロデューサーの)ボブ・エズリンは、1975年に『Destroyer』のために俺らとリハーサルを始めたとき、彼はルー・リードと『Berlin』で仕事をした直後だった。俺らはニューヨークの42丁目と6番街にあるキャロルズでリハーサルをしていた。そこにルーが入ってきた。俺はデヴィッド・ボウイとミック・ロンソンがプロデュースした『Walk On The Wild Side』のことは知っていたし、大ファンだった。

リードが入ってきたとき、俺らはリハーサルをしていて、曲を作ろうとしていたんだけど、ボブがルーに歌詞を一緒に作って欲しい、別の角度から見て欲しい、と言っていた。でも、実際にはうまくいかず、俺らには“Detroit Rock City”や“Flaming Youth”といった新曲があったから待ちきれずに『Destroyer』を作ってしまったんだ。

ボブ・エズリンが次に俺らと仕事をしたのは『 (Music From) The Elder』(1981年)だった。これは最高の意図があったんだけど、方向性を間違えてしまった。(商業的な大失敗の)全責任は俺にある。

ルーがトロントのキングス・シティにやってきて、みんなで座って曲名のアイデアなどを走り書きしていたら、みんながすぐに“A World Without Heroes”に注目した。この曲では、曲が自然に書けるような気がした。ポールの“Every Little Bit Of My Heart”のコード進行と、“A world without heroes... it's no place for me... It's like a bird without wings...”という歌詞を取り入れたら、かなり心に響くものになった。これはルーの貢献で、タイトルだから、彼はソングライティングのクレジットを得たんだ」

■エディ・ヴァン・ヘイレン

「スターウッドという場所にThe Boyzzのライヴを見に行ったんだけど、最初のバンドがヴァン・ヘイレンだった。2曲目で彼らは俺をノックアウトした。俺は“ギタリストを見てくれ、ヴォーカルがアクロバットをやっているのを見てくれ、なんだこれは!”と思って、すぐにバックステージで彼らを待った。彼らはとても良かったよ。

彼らと会うと、エドワードとデイヴィッド(・リー・ロス)をはじめ、みんな赤ん坊だったんだけど、俺がそこにいることにどれだけ興奮しているかを話してくれた。彼らはキッスの大ファンで、よくライヴで“Firehouse”をやっていた - YouTubeでそれを聴くことができる - ヨーグルトのメーカーが出資してくれるということで、彼らは大喜びだったが、俺は彼らに“やめろ! デモに出資して、ニューヨークまで連れていくから”と懇願し、そして、実際にそうした。

デイヴィッドに最初の厚底ヒールとレザーパンツを買ってやった。二人をホテルに泊めて、エレクトリック・レディ・スタジオに連れていき、デイヴ・ホイットマンを呼んだ。彼は俺たちのアルバムのエンジニアで、ハンブル・パイや他の多くの作品にも携わっていた。15曲ほど録音したんだけど、未だにリリースされていないんだ。

そのテープを当時のマネージャーだったビル・オーコインのところに持っていって、ポールとバンドのみんなに聴かせた。みんな肩をすくめて“だから何?”っていう感じだった。俺は“ふざけんな!何言ってるんだ、だから何?だと。ちゃんと聴けよ!”と言った。当時は、みんな自分の生活で精一杯だったんだ。それで、ビルのためにヴァン・ヘイレンにショーケースをやってもらったんだけど、彼はまだ理解していなかった。彼は彼らをブラック・オーク・アーカンソーみたいだと思っていた。ブラック・オークには長いブロンドの髪の男(ジム・ダンディ)がいたし、その他もろもろでね。

彼らは俺のプロダクション会社Man Of A Thousand Faces Incorporatedと独占契約していた。キッスは『Love Gun』のツアーに出るところだったので、俺は“君を縛り付けたくないから、契約を破棄する。倫理的にも道徳的にも、その他の意味でも、君に働かせることができないのであれば、君を閉じ込めておくわけにはいかないんだ。ツアーに出なければならない。6ヶ月か8ヶ月でツアーから戻るよ。自分で契約を取りに行くのは自由だ。もし、その間に契約が取れなかったら、また戻ってくればいい”と言った。

そして1ヶ月以内にワーナー・ブラザーズと契約し、スタジオに入った。ツアーが終わる頃には“You Really Got Me”がラジオで流れていて、大ヒットしたんだよ」