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『伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE』発売記念トークショー&ミニライヴ レポート到着

2018/06/01 15:03掲載
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伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE
伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE
『伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE』の発売記念トークショー&ミニライヴが5月18日にdues新宿で開催されています。当日のレポート到着

以下シンコ−ミュージックより


伊藤銀次

『伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE』発売記念トークショー&ミニライヴが、5月18日dues新宿
にて満員の観客を集め開催された。司会進行は本書を編集した荒野政寿が担当した。

はっぴいえんどとの出会い

荒野:今回の自伝は、スペースの都合で載せきれなかったエピソードがたくさんあるので、今日はその中から順番に伺いたいのですが。まずははっぴいえんどとの出会いについて。はっぴいえんど以前に、細野晴臣さんや松本隆さんが組んでいたエイプリル・フールの演奏をテレビでご覧になったそうですね。

銀次:エイプリル・フールは音楽雑誌『ミュージック・ライフ』にも載ってました。1969年頃になると音楽シーンの主流もポップスからブルースや強面のロックに移っていって、『ミュージック・ライフ』でもウォーカー・ブラザーズやモンキーズといったアイドルと一緒に、エイプリル・フールのようなロック・バンドの情報が載るようになってきてたんです。日本でもグループ・サウンズの後、内田裕也さんのフラワーズ、パワー・ハウス(柳ジョージや陳信輝が在籍)とか、ニューロック的な人たちがどんどん出てくるんですけど、なかなか音が聴けないわけです。そんなとき、登校前ギリギリの時間に放送されていた『ヤング720』という番組があって、朝っぱらからロックをかけるという。

荒野:しかも、当時としてはかなり過激なロック・バンドが出演していたんですよね。

銀次:よくあんな番組を作ってくれたなぁって、僕ら地方の音楽ファンは本当にうれしかったんです。で、その番組にエイプリル・フールが出て「トゥモロウズ・チャイルド」って曲をやったんです。当時アメリカでヴァニラ・ファッジがやっていたような、いわゆるアート・ロックというか、演奏で大見得を切るみたいなロック。

荒野:オルガンが活躍する長い前奏の曲ですよね、「トゥモロウズ・チャイルド」は。

銀次:そう、それがカッコ良くて。柳田ヒロさんのオルガンが凄いし、ヴォーカルの小坂忠さんはソロになってからの穏やかなイメージと違って、当時は滅茶苦茶ロックでね。学校に行ってから、クラスの数人と「今朝のアレ見たか? スゴかったなぁ」って話した記憶があります。演奏はテレビで見て、『ミュージック・ライフ』から文字情報を得る、という感じでしたね。それからファースト・アルバム『THE APRYL FOOL』の写真で、初めてメンバーの顔を知って。ひとり、目がギョロっとした人がいて…それが細野さんでね。まさか、その後に知り合うことになるなんて、当時は夢にも思いませんでしたよ(笑)。

荒野:細野さんとの出会いのエピソードは自伝にも出てきますね。その『ヤング720』がオンエアされたのは1969年ですが、間もなくエイプリル・フールは解散。細野さんたちが準備していた新バンドに大滝詠一さんが合流してはっぴいえんどが誕生し、通称〈ゆでめん〉と呼ばれているファースト・アルバムがURCから発売されたのは翌70年8月でした。銀次さんが〈ゆでめん〉を最初に聴いたのは、大阪難波にあった伝説の喫茶店「ディラン」で、だったそうですね?

銀次:そう、大塚まさじさんが当時マスターで。最初に聴いたときは…有り体な言い方なんだけど、〈目からウロコ〉でした。
 高校生のときに日本語のオリジナル曲を作ろうとトライしたけど──なんかいただけなくて、当時の歌詞を書いたノートとかは見る度に赤面してしまう(笑)。意味のある内容で書こうとしてしまって、ボブ・ディランやザ・バーズに影響を受けたプロテスト・ソング、〈燃える 燃える バターが燃える 森が燃えて 少女は逃げる──〉とか(笑)。歌詞がどうもリズムに合わなくて、べったりしてしまってね。でも、その頃流行ってたグループ・サウンズの中で、ザ・スパイダースの「バン・バン・バン」や「フリフリ」とかにはぶったまげましたね。日本のキンクスかと思った。かまやつひろしさんの詞って、一見他愛もない歌詞に見えるかもしれないけど──これは僕が40数年ずっと思ってることですが──〈他愛もない言葉なのに、音楽と一緒になったときにとんでもないことになる〉、それが正しいポップスやロックの詞のあり方かなと思うんですよ。ボブ・ディランの歌詞も、意味だけじゃなくてリズムが重要なんです。口に出して歌ったときに独特の快感がある。これは音楽の詞にしかないことです。だから自分で歌詞を作ろうとした最初期に、これは英語じゃなきゃダメなんだろうなぁと思ったんです。コニー・フランシスとかニール・セダカの時代のオールディーズには、まだ日本語の訳詞がうまく乗ってたんですけど、黒人音楽をベースにしたロックになると一音にたくさん言葉が入っていて、日本語を乗せても躍動感が出ない。だから日本語でロックは無理だ──って思ってたんです。
 ところが、はっぴいえんどの「春よ来い」はいきなり出だしから、♪お正月といえば〜で、今までと日本語の聴こえ方が全然違った。意味もあるし、聴こえ方が英語みたいだし。最初に聴いたときは誰が歌っているのかよくわからなかったけど、「春よ来い」は大滝さんですよね。大滝さんの歌い方というのは、洋楽でマスターした歌い方をそのまま日本語に応用して歌ってる。当時、ガァー!ってシャウトするのがロック・シンガーだったのを、大滝さんは〈ロックとは何なのか〉っていうニュアンスをドメスティック化して歌うことができた人だったんです。僕は、その頃「ディラン」に入り浸っていて、ノートにリクエストを書くと大塚まさじさんがレコードをかけてくれたので、しょっちゅう〈ゆでめん〉をリクエストして聴いてましたよ。僕にとって「ディラン」は〈日本語の音楽との出会いの場〉でした。あのお店で大塚まさじさんや西岡恭蔵さんと出会って言葉を獲得して、それから松本隆さんの歌詞に触れて──。ごまのはえを作ったとき、僕は勝手に〈西の松本隆になろう〉と思ってました(笑)。



大滝さんから教わったこと

荒野:ごまのはえは大滝さんにプロデュースを依頼して上京し、猛特訓を受けることになるんですが。実は「大滝さんと細野さん、どちらに頼もう?」と迷った結果の選択だったそうですね。あのとき、もしも大滝さんではなく細野さんがごまのはえをプロデュースしていたら、どうなっていたんでしょう? 〈たられば〉の話ですが。
銀次:そうですね、細野さんどうしますかね。

荒野:細野さんはセンチメンタル・シティ・ロマンスの同名のデビュー・アルバム(75年)をプロデュースすることになったとき、彼らのサウンドを聴いて特に手を入れるところがないと判断されたそうで。結果的に、そのアルバムはバンドのセルフ・プロデュースということになって、細野さんの名前はアドバイザー的な役割としてクレジットされたんですね。そんな風に、そのバンドの良い所は敢えていじらず、そのまま出す──というのがプロデューサーとしての細野さんの姿勢なのかなと思いまして。

銀次:細野さんはやっぱり〈現場の人/ミュージシャン〉で、最近のライヴでも若手を率いて最先端で演奏しているバンドマンなんです。大滝さんには全然バンドマン的な要素はなくて、穿った見方をすると〈音楽文化研究家〉。でも、そういう研究家タイプは歌が下手だったりする場合が多いですけど、大滝さんは天才的に歌が上手かった。そこが、大滝詠一みたいなアーティストになろうと思っても絶対に真似できないところなんです。音楽の知識が豊富にあって、それを実践して歌うわけでしょ。しかもその歌のスタイルが多岐に渡ってる。大滝さんはロック以前のポップスを背景にして、その後のバート・バカラックやジミー・ウェッブといった作曲家にも凄く興味があった人で。そんな大滝さんが細野さんと出会い、オーディションを経てリード・ヴォーカリストとしてはっぴいえんどに参加する。その頃の細野さんは謂わばマルクスで、〈はっぴいえんどとは何か〉を定義したわけです。イギリスのジミ・ヘンドリックスとかの音楽をお手本にするのではなく、アメリカのバッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプといった新しいバンドを雛形にした。新しい音楽なんだけれども、その中にはカントリーやジャズといった、アメリカが脈々と作ってきた全ての要素を内包している〈これぞアメリカン・ミュージックだ〉というものでした。そういう音楽を参考にしてやってみようと示して、大滝さんはその旗の元に集まったんです。それから大滝さんはバッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプの曲を完コピされたそうですよ。
 僕もごまのはえで、大滝さんから「君はリード・ヴォーカルなんだから、なんでもいいから好きな曲をコピーしてみなさい」と言われて、イーグルスの「ティク・イット・イージー」とリトル・フィートの「ディキシー・チキン」を練習して歌ったんですけど。僕がローウェル・ジョージの歌い方を自分なりに真似て歌ったら、大滝さんに「君、それじゃルイ・アームストロングだよ。コピーしろって言ったけどモノマネしろとは言ってない、なんか違うよ」って言われてね(笑)。当時は若くてわからなかったんですけど、その〈なんか違う〉っていう所がコピーのキモで。その曲をそれらしくしている所をしっかり感覚で掴んでコピーすれば、モノマネじゃなくなるんです。それを理解して大滝さんの歌を聴けばわかりますけど、「空色のくれよん」の最後のヨーデルはジミー・ロジャースとかカントリー・シンガーの歌い方をコピーしてますし、リッチー・フューレイの歌い方とかもコピーして、完璧に大滝流になってるんです。

荒野:単純なモノマネとは違う、大滝さんならではの味ですよね。

銀次:それが大滝さんから受けた最初の直接指導でした。でも、大滝さんってよくわからない人なんです。「なぜ、ごまのはえをプロデュースしたいと思ったんですか?」って聴いたら、大滝さんがわざわざ高槻まで僕らを観に来てくれた時、いろいろ演奏した中で印象に残った1曲があって──当時はカントリー・ロック風に「紙飛行機の歌」ってタイトルでやっていた、「ココナツ・ホリデイ」の元になった曲──それを聴いて大滝さんは、「このメロディーはスゴくポップだ」ということでピンと来て、ごまのはえをプロデュースしようと決めたそうなんです。大滝さんは、〈だいたいいい〉とか、〈おしなべて平均点〉というのは好きじゃないんです。後に僕がソロになってから時代の波に巻き込まれて、自分でも何をやっているのかわからなくなっていた時期に、かつて中学・高校の頃大好きで聴いていたポップスからメロディーが出てきた──それも、あのとき「紙飛行機の歌」のメロディーに大滝さんが注目してくれたからなんだと思います。

プロデューサー・伊藤銀次

荒野:大滝さんから受けた指導やアドバイスが、プロデューサー=伊藤銀次の厳しさに影響を与えたところは少なからずあるのではないでしょうか。ウルフルズから〈銀次ヨット・スクール〉とまで言われた、鬼の厳しさについてはよく言われますが。
銀次:みんなちゃんと生きてますから(笑)。

荒野:確かに(笑)。妥協を許さず徹底的にやり抜く姿勢も、大滝さんからの影響でしょうか。

銀次:自分は元々、商売にしようと思って音楽を始めたわけじゃないんです。親からは「音楽の魅力に取り憑かれて、熱病にかかってる」って言われてました。それくらい当時の音楽の変化って物凄いパワーがあったし、それに巻き込まれていって。だから売れているものよりも、何かを貫いている人に興味があったんです。それがはっぴいえんどだった。で、そのメンバーの一人の大滝さんに直接プロデュースしてもらえるようになったっていうのは物凄いチャンスなので、大滝さんの言うことやることを一言一句漏らさず見てました。そのときに思ったのは──〈大滝語録〉はいくつかありましたけど、特に印象に残っているのは〈一を知りたければ十を知れ〉ということ。正直、なんて能率が悪いんだって思いましたよ(笑)。だから、「手っ取り早く売りたい」じゃないんです。自分が感じていることを完璧に出来るようにしたいってこと。尺度は大滝さんの中にあって、周囲は関係ない。僕も一緒に作業をしたときに、そういう瞬間を見ました。かと思えば、「こんなんでいいの?」っていうこともあるんですよ。布谷文夫さんの「冷たい女」のレコーディング中、パーカッションのトラックがテープレコーダーのトラブルで回転が逆になっちゃったのを、大滝さんはこれは面白いと、ワザと残したんです。だから結局、基準はなんだというと、大滝さんなんですよ。他がどう言おうがオレが面白ければ面白い、っていう。そこが、実は僕のプロデュースのポイント、〈自分がこの音を作りたい!と思ったときに妥協しない〉でもあるんです。目的の音に近づいてきて、でも何か違うなと思ったときも、そこでやめない。とにかく大滝さんの精神エネルギーの強さは凄くてね、レコーディングでもゲームでも、徹夜でやったときは絶対に寝ませんから。
 ポップスってエンタテイメント・ミュージックなんですけど、芸術的な部分もあって、そこはお客さんには見せない、裏に潜ませる物なんです。キャロル・キングとコンビを組んでいたジェリー・ゴフィンは、元々もっと文学的な人で、奥さんのキャロルからポップスの詞を頼まれて渋々書き始めたら、それまでのポップスの詞にはないような独特の視点の作品を次々に生み出して、それが新しいポップスを生み出していったんです。そのゴフィン=キング作品は海を渡ってビートルズを刺激し、広がっていった。だから必ずしも買ってくださる人におもねって作ったからといって、いい結果になるとは限らないんですよ。大滝さん、はっぴいえんどは当時全然ウケなかったけど、アートとポップスの両方の要素を持っていたんですね、だから僕は知らず知らずそれに引き寄せられたのかと。その後、佐野元春君だったり杉真理君だったり、近い所では山下達郎くんが大滝さんの元に来たりとか、みんなそういう要素を持っているんです、それがナイアガラのタッチだと思う。
 僕はウルフルズをプロデュースするとき、彼らの最初のアルバム『爆発オンパレード』を聴いて、曲はいいけどレコーディングはダメだと思ったんですよ。これは僕がごまのはえのシングルを大滝さんに聴かせたとき、大滝さんが思ったことと同じだと思うんです。大滝さんからはいろんなことを言われましたから。で、ウルフルズは何か面白かったかと言うと、ライヴで観たトータスくんの歌が、本当にこの人日本人なの?というくらい声がパリパリに乾いてて、音が「カッ!」って出てきて炸裂する。このヴォーカルは絶対やりたいと思ったんです。彼らは普通のJ-POPではないから売りにくいけれど、それが個性で。僕は大滝さんの影響を受けてるから、中途半端にはやりたくない。お砂糖を入れて甘くしても売れるわけがないし、それでは意味がないと思ってて。だけど、ああいう「カッ!」っとしたもので過去に売れた例を振り返っても、サザンオールスターズかRCサクセションしかいなかった。だから、彼らの後継者として、そこにくっつけるしかない──プロデュースするとき、そういうヴィジョンははっきりありました。だから覚悟を決めて、思いっきりとんでもないものを作ろうと。トータスくんには「勝手にシンドバッド」みたいな曲を作ってよって、ずっと言ってました(笑)。

ソロ・アーティスト・伊藤銀次

荒野:なるほど。で、ここからはソロ・デビュー以降の話題に行きたいんですど、77年のファースト・ソロ・アルバム『デッドリィ・ドライブ』は最近シティ・ポップとという視点で再評価されて、海外のアーティストにも注目されていますよね。発売当初は考えられなかったことだと思いますが、当事者としてはどんな心境ですか?
銀次:時代が変わったってことですよね。日本でもそこら中に外国人がいるし、食生活も変わったし。僕もFacebookを始めたら、海外から「あなたの『こぬか雨』という曲が大好きで、入手した音を友だちにどんどん聴かせてます」っていうメッセージがブラジルのサンパウロの若者から届きました。他にも80年代にYMOを聴いてファンになったというフロリダの人は、細野さんや高橋幸宏くんとか教授(坂本龍一)の関係の物を聴くようになって、そこからシュガー・ベイブや僕の作品、あがた森魚さんまで辿り着いたそうです。言葉とかわからなくても全然OKで、響きやあの感覚が伝わればいいんです。最初に言いましたけど、音楽ってどうでもいい言葉を凄くパワフルな存在に変えるんですよ。だから日本人のために詞を重点的に考えた音楽は世界には行けません。国境を超えたければ、言葉を超えないとね。言葉とメロディーがくっついたときにマジックが起きないとダメなんですよ。最近そのマジックを起こしたのはピコ太郎の「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」。

荒野:銀次さんはピコ太郎の話をよくされますよね。

銀次:あれは「ワイルド・シング」(トロッグス)や「ハンキー・パンキー」(トミー・ジェイムス&ションデルズ)、「ヴィーナス」(ショッキング・ブルー)とかのキャッチーなフックと同じですよ。あと、近年印象に残ったのはファレル・ウィリアムスの「ハッピー」。日本各地の人があの曲で踊ったじゃないですか。あれこそ国境を超えるってことなんです。

荒野:さて、6月にEMI時代のアルバムがまとめて再発売されますね。

銀次:ありがたいことですね。EMIがユニヴァーサルに移って、また出していただける。

荒野:その聴きどころを是非。

銀次:ポリスター時代は割とポップスで、EMIはロック、キャラクターがまったく違うんです。面白いもので、イカ天(89〜90年)の審査員をしていた頃に僕のファンになった方はEMI時代がいいって言うんです。

荒野:時代がロック側に向いてましたからね。

銀次:僕、流行りものに弱いから(笑)。でも、結局僕はビートルズが好きで、バンドが好きなんです。ギター1本で歌って出来上がりじゃなくて、ドラムやベースが入ったバンドの音が当たり前。だから歌だけじゃなくサウンドにも力が入る。EMIイヤーズはバンド・アレンジメントのロックが中心でした。僕がソロになってからの英米の音楽は、打ち込みとかの進化もあって、音作りの方法論が全く変わってしまって。

荒野:リリースからかなりの年月が過ぎましたが、今聴き直してもいい曲がたくさんあるので、是非この機会にお買い求めいただきたいですね。では、最後に今年の活動予定、話していただける範囲で教えて頂けますか?

デビュー45周年のアフターマス

銀次:昨年がデビュー45周年だったので、ことしはそのアフターマス(余波)として、例年の如く夏から秋にかけて全国ツアーの予定が入ってます。他には近いところだと、トリビュート・アルバムに参加させてもらった博多のザ・ゴーグルズのライヴ(6月27日・東京キネマ倶楽部)、サーカスや杉真理くん、庄野真代さんとの「Live Light Mellow Vol.1」(6月16日・新宿全労済ホール/スペース・ゼロ)がありますね。

荒野:その「Live Light Mellow Vol.1」の翌日、6月17日には、今日よりもっとディープなトーク・イベントを武蔵小山のイベント・カフェ・アゲインでみっちり行う予定です。

銀次:あと、去年は忙しくてできなかったんですけど、久保田洋司君(THE 東西南北)、絵描きの小峰倫明さんと僕とでやっている〈えとうた〉っていうユニットがあるんです。小峰さんの描いた絵にインスパイアされて僕らが曲を書いたり、僕らの書いた曲にインスパイアされて小峰さんが絵を書いたり──そうやってできた曲が十数曲、もちろん絵もあるので、それをなんとか形にしたいなって思ってます。

荒野:ソロ作とはまたタイプが違う、個性的な曲が多いですよね。

銀次:へんてこりんな曲だけど、なかなか面白くて。〈えとうた〉というのはセルビア語でslika i pesma(スリカアイペスマ)、その名前で是非ライヴをやりたいと思います。あとは、長江健次くんが久々にアルバムを出すんですけど、とんでもなく面白い曲が出来たので、これも楽しみにしてください。あれもこれもありますけど、〈そこに山があれば登る伊藤銀次〉ということで(笑)。

荒野:では、前半のトークショーはここまでで。銀次さん、ありがとうございました。

──休憩後、二部のライヴがスタート──



アコースティック・ギターを抱えた伊藤銀次が一人でステージに立ち、今回の自伝、ボックス・セット『POP FILE 1972-2017』と寄り添った流れで、それぞれの関連エピソードを披露しながら様々な曲を歌う形でライヴは進められた。

♪1「ウキウキWatching」伊藤銀次

銀次:日本人なら誰でも知ってる曲でした。大滝さんからは「あの元ネタはハーマンズ・ハーミッツの『ミセス・ブラウンのお嬢さん』だろ?」って言われたんですけど、僕は全然頭になかった。どちらもバンジョーが入ってるので、その響きで大滝さんはそう思ったのかな──と。でも僕が14〜5歳で初めて耳コピしたのが、実はこの曲。さすが大滝さんです。

♪2「ミセス・ブラウンのお嬢さん」ハーマンズ・ハーミッツ

銀次:こうやって人前でやるのは初めてかも。最初は簡単なんだけど途中転調があって、コピーするのに何ヶ月もかかりました。最初はイギリスのマージー・ビート系のバンドを好きになってコピーして、後で『BABY BLUE』というアルバムのときに、そういう影響を受けたものを形にしたくて作ったのが「雨のステラ」。クリシェという、同じ和音が続くとき、その中の構成音の一つを半音または一音ずつ変化させるやり方を使いました。その「雨のステラ」の元になった曲をやりたいと思います。デイヴ・クラーク・ファイヴで「ビコーズ」。

♪3「ビコーズ」デイヴ・クラーク・ファイヴ

銀次:「ビコーズ」を歌って「雨のステラ」を歌わない──というわけにはいかないので、「雨のステラ」を歌います。皆さん「パクる」って簡単に言いますけど、それについては佐野元春が、〈それはインスパイアって言うんだ〉と言ってます。「女の子が小さい頃から台所で、お母さんがきゅうりを切るのを見ていたとする。そこで知らないうちにその切り方を見て学んで、大きくなって同じようにきゅうりを切る──それがインスパイアだ」。いいでしょ。

♪4「雨のステラ」伊藤銀次

銀次:高校の頃4つくらいエレキバンドにリズム・ギターで掛け持ちで参加してました。ベンチャーズ、スプートニクス、シャドウズ、GS系。その中で一番身を入れてやったのが、演奏は下手だけど音楽の趣味がやたらウルサいバンド(笑)。メンバーの大西君から洋楽のLPをいろいろ借りて聴いたし、リード・ギターは今、ASKULの社長になってる岩田彰一郎さんが弾いてました。そうやって始めた頃聴いてたのがボブ・ディランやバーズ、ラヴィン・スプーンフルといったフォーク・ロック。その中からラヴィン・スプーンフルの「うれしいあの娘」を。この曲を出したポリドール・レコードの担当ディレクターは、作曲家として有名になる前の筒美京平さんです。

♪5「うれしいあの娘」ラヴィン・スプーンフル

銀次:僕が東京に出てきて会った、当時シュガー・ベイブのマネージャーをやっていた長門芳郎さんは、ラヴィン・スプーンフル・ファン・クラブのメンバーでした。人の縁って凄いです。同じ物が好きな者同士は引き合って、いずれ出会うんですね。で、このバンドのリーダーのジョン・セバスチャンが好きで、それ風な曲が作れたらなぁと思って作ったのが「SUGAR BOY BLUES」。インスパイアです(笑)。

♪6「SUGAR BOY BLUES」伊藤銀次

銀次:今日は自伝とボックス・セット『POP FILE 1972-2017』の副読本的な感じで曲をやってます。東京に来て大滝さんに特訓を受け、そこから僕の中でポップスが芽生えました。そうやって書いた「幸せにさよなら」を大滝さんは凄く喜んでくれた。そこからソングライター/伊藤銀次が始まったんです。生まれて初めて人に頼まれて書いた曲はやまがたすみこさんの「クリスタル・ホテル」。ミニー・リパートンみたいなアレンジは鈴木茂くんでした。そして、2曲目はクールスの「Teenage Girl」。ロカビリー・バンドのクールスなら、別のアングルの方が競争率が低いだろう(笑)と書いた、ロマンティックなバラードです。

♪7「Teenage Girl」クールス

銀次:山下達郎くんとのコンビは運命のいたずらみたいなもので、二人が出会い、話が合って、シュガー・ベイブの「今日はなんだか」のサビの歌詞を書いたりして──。その二人にザ・キング・トーンズ用の曲の依頼が来たんです。じゃあ僕が詞を、山下くんが曲を書いて一緒に作ろうと。そのときに作った曲で一番有名なのが「DOWN TOWN」、もう一曲は『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』に入ってる「遅すぎた別れ」。そしてもう一曲が、その後しばらく日の目を見なかった「愛のセレナーデ」。これは82年に山下くんがフランク永井さんの「WOMAN」をプロデュースしたとき、そのカップリングに入りました。2005年にラッツ&スターの低音ヴォーカル、佐藤善雄さんが出したソロ・アルバムでも歌われています。

♪8「愛のセレナーデ」フランク永井

銀次:1979年〜80年頃、沢田研二さんが『G.S.I LOVE YOU』を制作するに当たって、当時のイギリスのニュー・ウェイブと、GS(グループ・サウンズ)の精神を合体したいと、なんと僕に編曲の依頼が来たんです。そこでかつてローリング・ストーンズをよくカバーしていた沢田さんに向けて、思いっきりロックのアレンジでアイデアを出した。その作業の最中に、気がついたら一曲できてしまった(笑)のを翌日プロデューサーの加瀬邦彦さんに聴いて頂いて、アルバムに入れるOKを貰いました。銀次の〈押し売りソング〉です(笑)。「I'LL BE ON MY WAY」。

♪9「I'LL BE ON MY WAY」沢田研二

銀次:それでは最後に「BABY BLUE」を歌います。

♪10「BABY BLUE」伊藤銀次

場内、サビの大合唱で終演。この後サイン会が行われた。
●『伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE』
A5判/248頁/本体2,000円+税/発売中
ISBN:978-4-401-64532-9

初めて詳しく語られる生い立ちからアマチュアバンド時代、ごまのはえ~ココナツ・バンクとシュガー・ベイブ在籍時を含む“ナイアガラ・イヤーズ”、その後のソロ活動まで全てを網羅。アレンジャー/コンポーザー/プロデューサーとして携わった作品、自身のアルバムについて語り下ろした伊藤銀次初の自伝が登場!!