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『ザ・ビートルズ1』発売記念「星加ルミ子(元ミュージック・ライフ編集長)トーク・イベント」のレポート

2015/11/09 17:42掲載
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<星加ルミ子(元ミュージック・ライフ編集長) トーク・イベント>(星加ルミ子氏 長谷部宏氏)
<星加ルミ子(元ミュージック・ライフ編集長) トーク・イベント>(星加ルミ子氏 長谷部宏氏)
『ザ・ビートルズ1』の発売を記念して開催された<MUSIC LIFE presents POWER SPOT OF THE BEATLES>。11月6日、7日に行われた星加ルミ子元ミュージック・ライフ編集長(ゲスト:長谷部宏カメラマン)によるトーク・イベントのレポートが公開中

以下、シンコ-ミュージック・エンタテイメントのレポートより

「MUSIC LIFE presents POWER SPOT OF THE BEATLES」
星加ルミ子(元ミュージック・ライフ編集長) トーク・イベント

『ザ・ビートルズ1』の発売を記念して開催された「MUSIC LIFE presents POWER SPOT OF THE BEATLES」に於いて、11月6日・7日と星加ルミ子元ミュージック・ライフ編集長(ゲスト:長谷部宏カメラマン)によるトーク・イベントが行われた。

会場内にはビートルズと星加編集長が写ったミュージック・ライフ誌表紙の等身大パネルをはじめ、65年から68年にかけてスタジオやライヴで撮影された4人の写真が数多く展示され、満員の客席も含めビートルズ一色の中イベントは始まった。

<1964年ビートルズ、ミュージック・ライフの初表紙を飾る>

星加:今日は私がビートルズを取材した時のお話をいっぱいしたいと思います。それと、皆さんが滅多に会うことができないゲストもお迎えしていますので、楽しみにしてください。まず、最初に私がミュージック・ライフの編集部に入ったのが1961年、それでビートルズのデビューが'62年。でも、最初の頃は音楽雑誌を作っているにもかかわらず、私たちはビートルズの存在ってほとんど知らなかったんです。'63年になって「プリーズ・プリーズ・ミー」とか「抱きしめたい」がイギリスやアメリカで大ヒットして、ビートルズの名前がかなり露出されるようになっても、資料がないものですから海のものとも山のものともつかない状態だったんです。ところが'63年の終わり頃になると"ビートルズのこと何でも教えて欲しい""写真があれば見せて欲しい"って学校帰りの女学生が編集部に次々訪ねて来るようになって、"えっ!これは何なの?"っていうくらいその数がどんどん増えてきたんです。それでなんとか情報を得ようとロンドンの駐在記者に連絡をしたんですけど、"まったくビートルズには会えないし写真も撮れないからあきらめてくれ"って連絡が入って。それでも何とかビートルズの記事を載せたいなぁと思っていたらレコード会社(当時ビートルズのレコードを発売していた東芝音工)からモノクロのアーティスト写真が1枚だけ来たんですね。で、これを切り抜いて、人工着色して'64年4月号の表紙にしたんです。そうしたら、あちこちの書店から"表紙だけ破って持っていく人がいる"っていう連絡がたくさん入って、初めて"えっ!ビートルズってスゴい!"って思ったんです。

──'64年にビートルズは大規模な北米ツアーを敢行。各地の会場はもちろん空港からホテルまで、彼らが行く所は何万人というティーンエイジャーの女の子に埋め尽くされ、そのスーパースターぶりは否応難しに日本のメディアにも届いた。そこでなんとか記事を作るためには現地ロンドンに取材に出向くしかないと、マネージャーのブライアン・エプスタインに取材を申し込んだものの丁寧に断られたのが同年の秋のことだった。

星加:その後、東芝音工の石坂専務に協力をお願いしに行ったんです。そうしたらビートルズのレコードを出している英国EMIの重役スタンさんに掛け合ってくださって、"'65年の5月いっぱいビートルズは映画「HELP」の撮影に入っているが、6月にはその音源のレコーディングでスタジオ入りするから、その時に来たらチャンスがあるかもしれません"という連絡をいただいて。そこで"チャンスがあるかもしれない"という言葉を頼りに、とにかく行ってみようということで日本を発ちました。何でもビートルズ関連の素材があれば…ということでドイツのハンブルグに寄って、ビートルズがデビュー前に出演していたスタークラブやカイザーケラーで支配人にインタビューし写真を撮り、それからカメラマンと通訳と落ち合うためにパリに行ったんです。そこではフランス・ギャルやシルヴィ・バルタンとかの取材をして、6月の初めにやっとロンドンに着きました。そこでスタンさんに挨拶に行ったんですけど、彼から"エプスタインというのはタフでハードでスマートな男だから気をつけなさい"と聞かされて。最初意味がわからなかったんですけど、"精神的に凄く強くて気難し屋で頭がいい"ということだったんですね。その後、ブライアンに会いに行ったら、最初に"君は何日まで居るんだい?"って尋ねられたんです。"取材できるまで帰りません、もしできなければドーバー海峡に飛び込みます"とつたない英語で答えたら、"そうか…、でも多分ダメだと思うよ"って人ごとのように言われて(笑)

──数日後、再度ブライアンを訪ねた星加編集長はある物を土産に持っていった。

星加:英国は騎士道の世界ですから、刀がいいんじゃないかと思って日本刀を持っていきました。それも本物じゃなきゃ意味がないと真剣を一振り(もう時効だとは思われるが、メンバー分模造刀四振りと一緒に袋に入れ機内持ち込みをし、税関も"お土産用の玩具だ"と通関したとのこと)。刀を抜いて刃を見たブライアンの目の色が変わったのを私は見逃しませんでした。これで取材の可能性が96%くらいまで上がったって思いました(笑)。そうしたら、また出発日を聞くので"16日までは居て、その後ニューヨークに行きます。エルヴィス・プレスリーやサイモン&ガーファンクルの取材が決まってますので"って半分ウソですけど(笑)答えたんです。

<1965年EMIスタジオで初取材>

──取材日程を出す場合、海外では離日の前日に出すことが多いと言われている。果たして6月15日、滞在先のホテルに連絡が入り、慌てて着物に着替えお土産を持った星加編集長は夕刻EMIスタジオに向かう。そこでは「イッツ・オンリー・ラヴ」をレコーディング中の4人がいた。

星加:ここから先は実際にビートルズに会った時のエピソードになるので、一緒に取材に入り4人の素晴らしい写真を撮ってくださったカメラマン長谷部宏さんに入っていただこうと思います。今日のゲスト長谷部さんです(拍手で迎えられ長谷部カメラマン壇上へ)
長谷部:僕はビートルズのことはまったく知らなかったんで、パリで「ハード・デイズ・ナイト」を観た。そしたら女の子たちの悲鳴が凄くて、こんなの撮るのやだなって思った(笑)。で、実際に会ってみたらこれが全然お高くとまってないし。
星加:それどころか、気取りの全くない普通の男の子、もの凄い才能を持った普通の二十代の男の子たちだったんですよ。
長谷部:星加さんが着ていった着物に興味津々でね。
星加:このビッグ・ベルトは何だ?とか、長い裾には何を入れるのかとか。そこからすっと打ち解けていったんです。4人の中じゃジョン・レノンが一人ちょっとひねくれてるようなことを言われてましたけど、全然そういう感じじゃなくて。私が他の3人と話してると、初めは離れていて様子を伺いながら段々近づいて仲間に入ってくる。彼はすごく用心深いというかちょっと気が小さいところがあって。
長谷部:シャイなんだよ。
星加:とっても繊細なんですね。その後ミュージック・ライフの読者から預かった4人それぞれへの質問10個をタイプしたものを元にインタビューしようと思ったら、ポールが"見せてごらん、これ全員にそれぞれするの?君の英語だったら明日の朝までかかるから(笑)、僕に渡して"って言って、質問状をそれぞれに渡して説明してくれたんです。そうしたらメンバーが色々と書き込んでくれて。最初の質問"ポールの髪は茶色って書いてありましたけど、時々黒く見えるんです。どちらですか?"にはポールが抱腹絶倒の大ウケで、足をバタつかせて笑いながら"みんな、僕の髪何色だ?"って(笑)。そういうユーモアのある質問がよかったんでしょうね。始める前はインタビューは30分って言われてたのが3時間を越して。
長谷部:でも、録音したのを聞かされるのはまいったな。どうだどうだ?って聞くから、まぁ分んないけどいいんじゃないって(笑)。
星加:上のミキサー室から下のスタジオに録音した演奏だけを流してくれてたんですよ。エプスタインに曲名を聞いたら「涙の乗車券」だって言ってましたけど…。まぁそんな風に世界的にも人気絶頂のスーパースターを3時間も取材できたんですからね。そう、ジョン・レノンが"もし日本に行ったら相撲をみたい"って言ったのにピンと閃いて、メンバーの手形も取らせてもらいましたた。取材が終わってから、日本に"banzai"って電報を打ちました。

<1966年東京でホテルに缶詰のメンバーに取材>

──それから1年後、66年6月30日の早朝ついにビートルズは来日。3日間5公演を行った。その最終日7月2日の昼の公演前に、ミュージック・ライフ誌のみが取材を許可されメンバーが宿泊しているプリンスホテルの11階の部屋に、星加&長谷部コンビは向かった。外出できないメンバーのため、部屋ではカメラや着物、洋服など各店からの出張販売が行われていた。

星加:4人ともカメラに夢中で。
長谷部:ポールがレンズのこととかちょっと聞いてきたな。何台買ったかは分からないけど。
星加:何処へも行けないから4人で絵を描いてましたね。ファンクラブから頼まれたカラーの大きい絵と、後は色々と書き散らかしていたので、そのうちの4枚をエプスタインの許可を貰っていただいたんです。でもそれをミュージック・ライフの人気投票の楯と一緒にしまっておいたら、その箱ごとロンドンに送られてしまって(笑)。ま、長谷部さんに撮ってもらってたからいいかな…って思ったんですけどね。それからジョンのシェーのポーズを撮影して。これもジョンが"日本のキッズたちは今何が好きなんだ?"って聞くので、マンガのこのポーズが人気で挨拶がわりにやってるんですよって言ったら、ジョンも気に入ってやってくれたんですけど、ジョンが言った"キッズ"っていうのは子供のことじゃなくてビートルズのファンのようなティーンエイジャーのことだったんですね(笑)。
長谷部:シェーなんてみっともないから、星加さんにやめろって言ったんだけどね。
星加:でも怪我の功名で、今でもこのシェーは有名で、作者の赤塚不二夫先生も、"ビートルズにシェーをやらせた星加さんに是非会いたい"っておっしゃってくださったそうです。
長谷部:リンゴ・スターが持った凧の写真も撮ったけど、これもファンから贈られたプレゼント。それが部屋には山のようにあった。僕とポールとリンゴが写ってる写真があるんだけど、あれは誰が撮ったんだろう。星加さんかジョン・レノンかな。
星加:ジョンがちょっと席を外していなくなったことがあるんですね、それがしばらくしていきなり入ってきて部屋にあったドリンクを持ちながら、"ブライアン僕らはたくさんお金も稼いだし、もう充分だから後はこの金を使う方法を考えてくれ、もうビートルズは解散だ!カンパ〜イ"って大きな声で叫んだんです。部屋にはそろそろ出発だとクルーも集まってきていて、皆一瞬シーンとしてしまいました。ま、次の瞬間ワァーってなって、ジョンのいつものブラック・ジョークだということでその場は収まったんですけど、ブライアン・エプスタインが私の傍にきて"今のは絶対に書くな"って言ったんです。もうそんな話がブライアンと4人の間にあったのかな…って後から思いました。

<1966年ビートルズ最後のライヴ・ツアーを取材>

──ブライアンからはその後に続く'66年北米ツアーの取材のオファーがあり、オールエリア・パスが届く。そして実質最後となるビートルズのライヴ全14都市の内、5会場で星加&長谷部は同行取材を行う。当時、ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより有名だ」という舌禍事件があり、南部の州ではレコードや本を焼くなどの行為があり、ブライアンもテレビに出演し謝罪とジョンの弁護をした。

星加:シカゴやニューヨークでの記者会見ではそれに関する質問が出たんですけど、私が知る内ではそこだけでしたね。ジョン・レノンはどこか気の弱い所もあって終始ビビっていたみたいで、それ関連の質問が来るとポール・マッカートニーが、"あれは本心じゃないんだ"とジョンに代わって答えていました。本当にいいコンビでしたね。ライヴはどこへ行っても11曲35分のメニュー。日本公演と違ったのはラスト曲が「ロング・トール・サリー」だったこと。ポールに理由を尋ねたら"僕はティーンエイジャーの頃からリトル・リチャードとチャック・ベリーのファンで、いつか歌ってみたいと思っていたんだ"と。リトル・リチャードに敬意を表して歌ったそうなんです。会場は野球場も含まれていて、一番スゴかったのはニューヨークのシェイ・スタジアム。3階席まであって、そこから女の子が降ってくるんです。ステージ脇にいたブライアン・エプスタインはセーフティー・ネットが張ってあるから大丈夫だよって言ってましたけど。
長谷部:ファンの歓声が凄くて、何にも聞こえなかったよな。

<1967年再びEMIでのレコーディングを取材>

──翌年夏、ブライアン・エプスタインは睡眠薬とアルコールの摂取により不慮の死をとげる。その後ビートルズは自分たちで企画したテレビ用映画「マジカル・ミステリー・ツアーの」製作に入る。そして劇中に使用された「フール・オン・ザ・ヒル」のレコーディング取材のため、星加&長谷部コンビは再度EMIスタジを訪れる。'67年9月のことだ。

星加:その頃はもう、ビートルズのメンバーはそれぞれの好きなことをやり始めていて、4人が一緒に顔を合わせるのはスタジオくらいになっていました。ブライアンのお悔やみを言っていいのかどうか…と思っていたら、みんなあんまり悲しそうな顔はしてなかったのにちょっと驚きました。
長谷部:エプスタインはいなかったんだ。俺もう忘れちゃったよ。
星加:(笑)長谷部さんその辺りあんまり分かってなかったんだ。ポール・マッカートニーはブライアンと一番仲がよくて"最高のマネージャーだ"って言ってました。で、最初スタジオに入ったらポールがピアノを弾いていて、そこにばらばらとメンバーが集まって、曲を聞かせたり歌詞の一部をジョンが直したりしていたので、4人揃ったところで日本から持ってきたちゃんちゃんこを渡したら、すぐに袖を通してくれたんです。それを撮った写真が'67年11月号の表紙を飾りました。メンバーは時々集まってリハをするんだけど、それぞれシャッター・チャンスをくれるんですよ。ビートルズのレコーディングってあまり緊張感がないっていうか。
長谷部:いや、緊張感はあるんだよ。だから僕は傍に行かずに望遠レンズで撮ったんだ。レコーディングの邪魔になるようなことをちょっとでもしたら、はいそこまでって言われるのは目に見えてる。だから星加さんにも傍に行くなよって言ったんだけど。
星加:私はすぐ寄っていくから(笑)。さすが長谷部さん。
長谷部:メンバーは前に合った時より大人になってたね。
星加:長谷部さんに撮っていただいた写真もそれぞれ青年になっていて。
長谷部:その時に僕が一番印象に残っているのは、ジョンがたまに抜けてスタジオの奥の方で女の子と話してるから、星加さんに"あれ誰だろう、インド人かな"って聞いたら。
星加:なんか中国人みたいねとか。
長谷部:我々がそんな話をしてたら、それが小野ヨーコだったんだ。
星加:後でわかったんだけど、その時はまったくわからなかった。
長谷部:僕は写真を撮っちゃまずいなとは思ったんだけど、隙を狙って1枚は撮ったんだ。そしたらまた会った時に小野ヨーコから"あなた、あの時写真撮ったでしょ、あれはジョンと知り合って間もなくの頃だから記念に1枚ちょうだい"って言われたんだ。
星加:スゴい!覚えてたんだ(笑)。この後、「マジカル・ミステリー・ツアー」はBBCでクリスマス・シーズンに放送されたんですね。

──「マジカル・ミステリー・ツアー」を巡る話は'68年にも続き、日本での上映、テレビ放映のために星加編集長は何度か渡英を繰り返す。スポンサー、放映局も決まる中、買い付け価格交渉は難航したという。

星加:専門家じゃないですから、どのくらいの価格が妥当なのか分からなかったんです。最初はスゴい金額で到底払えるものじゃなかったんですけど、その後のやり取りでかなり下げてもらっていて、それでもまだ色んなオプションの交渉も残っていて。で、三度目に行った時ちょうどアップル社ができる寸前で事務所もあったので訪ねてみたんですよ。そうしたらポールとジョンとジョージが居て、ジョージはドノヴァンとの契約書を準備しながら、すぐにジョンと出て行ったんですけどポールは残って。そこでポールに「マジカル・ミステリー・ツアー」の放送とかのいきさつを話したんです。"日本のファンは待ち望んでいるのにスゴく金額が高いので無理かもしれない"って。そうしたらすぐにポールが権利を持っている人に電話してくれて、"この後行ってごらん"って言うんですよ。そうしたらあら不思議、ポール・マッカートニーって凄いですよね、半額以下になったんです(笑)。本当に信じられなかったです、電話1本ですよ。私はすぐに東京に連絡して契約しました。

<1968年アップル社のパーティー、'69年の屋上コンサート>

──この後、'68年のアップル社の従業員クリスマス・パーティーに訪問してリンゴ・スターの子どものお守りをした話や、サンタ役をやってプレゼントを配ったジョン&ヨーコのエピソードが語られた。そして星加編集長が最後にビートルズの4人に会ったのは、映画「レット・イット・ビー」の最後のシーンを飾ったルーフトップ・コンサートを終えて屋上から下りてきた時だった。

星加:ポールだけは"元気か"って声をかけてくれたんですけど、他の3人は脇目もふらず待たせてあった車に駆け込んで帰っていきました。1月の末のロンドンはすごく寒くてポールも鼻の頭真っ赤にしていて。この後70年にビートルズは解散します。私は78年に来日していたジョンとヨーコとは会ってるんですけど、長谷部さんはそれからもポール・マッカートニー一家とは凄く仲良くされていて。
長谷部:ウイングスが日本公演をする予定になっていて、その直前にオーストラリア・ツアーをやるので取材に行ったんだよ。ちょうど僕が「小さな世界の大きな巨人たち」っていう大判の写真集を出したとこだったので、それを持って行ってリンダ・マッカートニーに渡したんだ。そうしたら"こういう写真集私も出そうと思ってた"って、それからリンダと親しくなった。そうしたら来日が急遽中止になって、リンダが"日本に行ったらコー(長谷部氏)と同じレンズを買うのを楽しみにしてたのに…"って言うから"俺のをやるから"ってレンズを外して上げたんだ。その後カレンダーやグリーティング・カードを毎年送ってもらったね。
星加:リンダは亡くなって残念でした。
長谷部:残念だったね。
星加:というわけで長谷部さんはポール一家とは親しい付き合いを続けてらしたんです。
長谷部:その後のウイングスの来日時にオフィシャル・カメラマンの話があったんだけど、例の事件で帰国させられて実現できなかったんだ。

星加:というわけで、駆け足で私と長谷部さんが会ったビートルズのお話を聞いていただきました。まだまだエピソードはあるのですが、時間の関係で今日はここまで。またみなさんにお話をできる機会があると思いますので楽しみにしてください。今日はどうもありがとうございました。

──この後場内では、星加編集長のサイン会が行われた。