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ジョン・レノンの誕生日に開催された『ジョン・レノン80 星加ルミ子80』トークイベントのレポート到着

2020/10/21 15:52掲載
星加ルミ子
星加ルミ子
10月9日のジョン・レノン(John Lennon)の誕生日に、渋谷BAG ONEで開催された『ジョン・レノン80 星加ルミ子80』トークイベントのレポートが到着しています。トークゲストは、元ミュージック・ライフ誌編集長の星加ルミ子。

以下シンコーミュージックより

最後に会ったジョン・レノンは、作務衣を着て器用に箸を使い鰻重を美味しそうに食べていました

MUSIC LIFE CLUB presents
HAPPY BIRTHDAY ! TALK EVENT
「ジョン・レノン80
星加ルミ子80」レポート


10月9日ジョン・レノンの誕生日に、MUSIC LIFE CLUB presents HAPPY BIRTHDAY ! TALK EVENT「ジョン・レノン80 星加ルミ子80」が、渋谷BAG ONEにて開催された。
トークゲストの星加ルミ子さんは、1965年日本人として初のビートルズ取材を成功させて以来、解散まで毎年ビートルズ取材を行った元ミュージック・ライフ誌編集長。今回はのべ1時間半を超えるエピソード満載のイベントとなった、その一部をご紹介します。

──星加さんがミュージック・ライフ(以下ML)の編集長として最初にビートルズを表紙にされた号って覚えてらっしゃいます?
星加:1964年4月号、当時ビートルズのレコードを発売していた東芝レコードから配られた一枚のモノクロ写真の顔だけを切り取って、苦肉の作で色をつけたんです(人工着色)。当時ビートルズのことを載せる雑誌とかもなかったので、おそらく日本で初めてビートルズを大きく出した雑誌。そうしたら待ちかねていた、多分女の子たちが一冊は買ってくれるんですけど、二冊は買えないので、もう一冊の表紙を破いて持っていくことが多発して。連絡を受けて、いくつもの書店店頭に残ったその残骸を、社員総出でトラックで引き取りに行きました(笑)。みんな、4人それぞれお気に入りのメンバーの顔写真を切り抜いて本に挟んだりしたんでしょうね。
──そこから星加さんとMLの大躍進が始まる。
星加:私にとっては悲劇だったかも(笑)。ビートルズの取材をなんとか取らなければ──となって。でも、当時イギリスまでは20時間くらいかかるフライトで1ドルも360円。政治家や大会社の社長とかは別としてちょっとやそっとでは外国に行けない時代でした。そんな時にいきなり “ロンドンに行ってビートルズに会ってこい”って言われたら辞めたくなりますよね(笑)
──この時の武勇伝として数えきれないくらいのエピソードがあるんですが。
星加:結局は行くことになるんですが、ビートルズとの写真では着物を着てるでしょ、実は行く一週間くらい前に日本橋三越に飛び込んで一式揃えてもらったんです。その時、①ひとりでは着物を着られないので、左右を間違えないように模様が出る方が上に来るようなもの ②派手ではなく、たもとも短いもの ③帯もひとりでは巻けないので、途中から切って最初から結んだ形のものにして後ろから挿せばいいように、と注文を出したんです。
──それでロンドンのEMIスタジオ(現アビーロード・スタジオ)でビートルズのメンバーに会って、取材して写真を撮って、手形をとって…。
星加:ブロークンな英語でもいいやと知ってる単語をつなぎ合わせて話したんです。最初は30分って言われてたんですけど、結果的には3時間近くスタジオにいて、最後の方は何をしてもらおうかと考えました。そうしたらジョン・レノンが “僕がもし日本に行くことがあったらスモウ・レスラーに会いたい”って言ったんです。聞いてみると友人が日本を撮った写真集を持っていて、それを見ていたから桜だとか相撲とかよく知っていて。そこで、私がハッと思いついたのが手形。お相撲さんなら手形じゃないですか(笑)。4人それぞれ色紙に手形を取って。でも指にインクがつかないよう書いたら少し大きめになってしまいました。ポール・マッカートニーは爪や指の皺まで書いてくれて、4人ともひょうきんな無邪気な可愛い連中でした。あ、でも私、会うまでビートルズのことはそれほど詳しくは知らなかったんです、名前と顔くらいしか(笑)
先ほど着物の話をしましたけど、実はこの着物が大活躍するんです。おそらく彼らは着物を着た日本人の若い女の子を見たのは初めてで、最初に飛びついてきたのはジョージ・ハリスン。着物をベタベタ触って、“どうしてこのベルトはこんなに太いの?”とか、“どうしてこの袖は長いの?”とか色んなことを訊いてきて、みんなすごく珍しがってました。
──ジョンはどうだったんですか?
星加:最初ジョージが寄ってきて、続いてポールが“どこから来たの?”って、リンゴも珍しがって3人が向こうから話しかけてきたんです、ところが気がついたらひとりだけいない、ジョンは部屋の隅にしゃがんでいて私たちの話の輪に入ってこないんです。で、こういう気難しい人がいるんだったら、この後のインタビューも大変だな…と思って。ところがML読者から寄せられたビートルズへの質問状をポールが全員に記入するよう配ってくれたら、いつの間にかジョンも加わって書いていて、その時、<この人はすごい人見知りなんだなぁ>と思ったんです。見かけは一番男っぽいけど、シャイで人見知りで、ちょっと気が弱くて警戒心が強いのかな──と。後で聞いたら、イギリスの記者は意地悪で嫌な質問ばかりするので、ジョンは記者を毛嫌いしていたそうなんです。でも着物姿のこの子は子供っぽいことばかりしてる(笑)から警戒心が解けたのかいつの間にか話に入ってきて。その時はまさか同じ歳だとは知らないし(笑)、でも質問するとちゃんと答えてくれました。
──最初星加さんが思っていたイメージとも違いましたか?
星加:64年にアメリカで大成功して、すごいスーパースターが現れた…という認識はありましたけど、メンバーについてはほとんど情報って入ってきてなかったんですよ。リヴァプール出で、リンゴ以外の3人は高校生の頃からの仲良しで、素人バンドからプロになって、ブライアン・エプスタインというマネージャーがいてスーパースターになった…という大まかなことだけで。ですからジョンやポールの性格──なんていうのは会って初めてわかったんですね、それでも3時間取材した最後にはすっかり打ち解けて、ジョンは日本語的な発音・アクセントでデタラメな言葉を喋って、“どう、僕の日本語、上手いだろ?”とかって冗談も言ってました。
──星加さんを交えた写真がML65年8月号の表紙になってますが、僕の知る限りジャーナリストと4人で表紙に収まっているビートルズの載った雑誌って 世界でミュージック・ライフだけです。
星加:そうですよね、記者が一緒に写真に写るなんて外国では考えられないですから。表紙になった写真はカメラマンの長谷部さんが大判のカメラを持ち込んで撮影したもので、メンバー4人が本当にリラックスしたいい表情をしてます。
これはもうカメラマン長谷部さんのお手柄ですよね。余談ですけど、この表紙のMLを持って後日三越の呉服売り場に行ったんですよ、そうしたら着物姿のおばさんの店員さんが集まってきて──、私はてっきりすごいわねぇって言われると思っていたら、“あら、いやだ、あなた,<しごき>はこっちを上にしてこっちを下にするのよ、袖も出てるし、襟ももっときちんとしないと”って着物の着方に文句を言うんです、だっておばさんたちはビートルズを知らないんですもん(笑)。しばらく経ってから、これ誰?って。
──着物のオチがついたところで、これが1965年6月。その1年後、1966年6月いよいよビートルズ来日となります。

この後、1966年来日時の取材エピソード、続く全米ツアーの取材、休憩を挟んで、1967年『マジカル・ミステリー・ツアー』で使われた「フール・オン・ザ・ヒル」録音スタジオ取材、1968年アップル・コアでのクリスマス・パーティ取材、『マジカル・ミステリー・ツアー』日本での上映に関してのエピソード、1969年『レット・イット・ビー』のアップル・ビル屋上での<ルーフ・トップ・コンサート>終了時に出くわしたエピソードなど、ビートルズの初期、中期、後期のタイミングでメンバーと取材時間を過ごした様々なエピソードが語られた。そして最後にビートルズ解散後の話として、ジョンがヨーコさんと共に日本に長期滞在し、その帰国前に気軽な形で行われたティー・パーティーの模様が語られた。ジョンの素顔が見えるエピソードとして、このレポートはその話題で終えたい。

星加:1977年、ジョンとヨーコさんは10ヶ月くらい日本に滞在、ホテル・オークラのペントハウス、最上階に宿泊されてたそうです。主な理由は日本に家を持ちたい、別宅を買いたいということで、日本中あちこち行って探したらしい。でも、北海道は雪が降るから寒いし、沖縄は暑すぎる──となかなか話がまとまらなかったと聞きました。それでアメリカに帰る前々日辺りに、ヨーコさんと親しくされていた新聞記者の方から、“ヨーコさんが<日本の親しい友達を何人か部屋にお呼びしてお話ししたいわ>と言ってるので、よかったら来ませんか”という連絡があったんです。それでオークラの部屋に行きました。久しぶりに会ったジョンはヨーコさんに玄米しか食べさせてもらってなかったせいか(笑)、すっかり痩せていて、作務衣みたいなものを着てました。ヨーコさんはソファーに横座りしてパイプをくゆらせて、“ジョン、ちょっとショーンを見てきてくれないかしら”って言うんです。私がびっくりしていると、ジョンはOK! ってとんで行くんです、そして私たちにひとりずつお茶を煎れてくれて。この日は1時間くらいかな、みんなでお茶やお酒を飲んでおしゃべりをしました。三々五々帰る人がいて、気がついたら樹木希林さんと内田裕也さん、新聞記者の方が残っていて、そうしたらヨーコさんが、“ジョンがね、日本の鰻が美味しいって、鰻重が大好きなのよ。あ、皆さんもお腹が空いたでしょ、鰻重取りましょうよ”ってどこかすごい鰻屋さんから立派な鰻重が届いたんです。私たちはソファーに座ってたんですけど、ジョン・レノンは床にぴたと座って、割り箸を割ってこすり合わせて(笑)、箸を器用に使って鰻を食べていました。この時のジョン・レノンの姿がものすごく印象に残っていて、なんともいえない姿で、今でもジョンっていうとこの姿を思い出すんです。ジョン・レノンは外国人ですけど、痩せて作務衣を着てぴたと座って、器用にお箸を使って鰻重を美味しそうな顔をして食べて、私たちのお茶がなくなると煎れてくれて──。それまでのジョン・レノンからは考えられない振る舞いで、それがジョンに会った最後でした。
──最後に、ジョンと同じ時代を生きてきた星加さんにとってジョン・レノンはどんな存在ですか?
星加:最初に会った時は取っつきにくかったんです。ポールの方が優しいし、気を利かせて色々とやってくれるのでポールの方が好きだったんですけど、今考えますと最後の鰻のシーンも含めて、ジョン・レノンというのは奥深いというかそこはかとない魅力がありました。ジョン・レノンは何に悩んで、何をやりたくて、もし生きていたら彼は何をやっていただろう──と考えた時、思い出したのが、72、3年頃テレビのインタビューで、「これからあなたはどうなりたいのか?」と訊かれたジョンが “僕が今、一番憧れていて好きなのはボブ・ディランなんだ、彼みたいなことをやっていきたい”と答えていたこと。これには色んな意味があります、社会派のシンガー、プロテスト…。しばらく経ってからなるほどな、と思ったのは、小野ヨーコさんというまたとないベターハーフに恵まれたことで、彼女の行動力に気後れしがちなジョンが引っ張られ、ふたりは最高の芸術を作り出すカップルになっていったんですね。もし今、ジョンが生きていたら社会に対してボブ・ディランをも凌ぐような詩や絵や音楽を通じて何かを訴えかけていたんじゃないかな──と思います。

この後、星加さんの著作「私が会ったビートルズとロック・スター」のミニ・サイン会が行われた
■『私が会ったビートルズとロック・スター』
星加ルミ子著
四六判/200頁/本体価格1.400円+税/発売中
ISBN:978-4-401-64300-4

元『ミュージック・ライフ』編集長の星加ルミ子による書き下ろし音楽エッセー本。
1965年6月15日、ロンドンEMIスタジオでのビートルズ単独会見から始まる、自身の音楽人生を振り返った書き下ろしエンタメ・エッセー。ビートルズやエルヴィス・プレスリーといったスーパースターを支えた人々にスポットを当てつつ、60年代の日本、世界、音楽、社会、文化を俯瞰する